[3]お米屋さんもお菓子屋さんも、焼け出された人も満蒙開拓へ

 満洲に農業移民として渡っていったのは農村の人たちだけではない。東京から商店街丸ごと開拓団として送り出されていることは知っていたが、長野県からも商店主たちが開拓団に参加している。

 今、信濃毎日新聞から祖父たちが渡満中のある記事を探すためアーカイブを調べている。その1941年分を見ると、統制経済の下で経営が難しくなった中小商工業者に向け、技術を身に付けて軍需工場で働くか、帰農して大陸に移民するか、という2つの選択肢が提示されていた。

 転業の説明会では当の事業者たちの腰は重く、貯蓄の取り崩しでしのぐとか、農業をしたことがなく体力に不安を漏らす人たちもいる。
 ある地域では、農業移民の割当が達成できず、商工業者を特定して移民に行ってもらう交渉をしようという話まで出ていた。
 やがて八ヶ岳の訓練所で農業訓練に汗を流すお米屋さんたちの様子が伝えられた。

私の祖父は金物屋だった。
統制で生活は厳しかっただろう。ただ実家が花火工場だったので火薬を扱うことができたはずだ。だから最初に勤務したのが奉天造兵所だったのだろう。もしその技術がなければ、農業移民となっていたかもしれない。

 さらにその年は大火が続いた。
 ある村では50戸余りが焼け出され、厳しい世情にもかかわらず多くの義捐金が寄せられている。
 罹災した人たちの生活再建の手段として、やはり満洲への農業移民が推奨されていた。火元となった一家では兄弟が渡満する意思を固めていることが報じられている。

 その名前を『長野県満洲開拓史・名簿編』で照合した。どっちが間違っているかわからないけれど名前の漢字が異なっていたがほぼ同一人物と思われる2人を見つけた。
 兄弟は戦後ソ連から復員。妻子たちは佐渡開拓団跡で殺害、とあった。
 「火事さえなければ……」
 2人の心の声が聞こえた気がした。
 
 「二十カ年百万戸送出計画」は早々に破たんしている。
 戦争が長引き、召集される者が増え、食糧増産の役割も担わなければならなくなった農村は人口過剰どころか人手不足だった。
 軍需産業も人手不足で、小作農が土地を地主に返して街の軍需工場に勤めるという動きも記事にあった。小学校を卒業した子どもたちも国内だけでなく満洲の軍需工場に多数就職していく。

 そんな見出しを追いながら、開拓団に人が集まらないのはそもそも移民計画に無理があるのではないかと新聞記者はどうして疑わなかったのだろうと考えた。疑問に思っても書けなかったのだろうか。記者だけではない。誰かが気づいて声を上げることはできなかったのだろうか。

 満洲農業移民は、北満の防衛という軍事目的があったので、止めるわけにはいかなかった。だから商工業者も罹災者も送りこむしかない。
 先生たちにはノルマを課し、十四、五歳の子どもたちまで満蒙開拓青少年義勇軍に勧誘した。

 新聞のマイクロフィルムを回しながら、昭和恐慌後の農村の問題解決という目的から始まったはずの農業移民が、地滑りを起こして国内のいろんな問題を何でも解決できる万能施策のようになっていくのを目の当たりにする。盛大な壮行会で内原訓練所に送られていく子どもたちの意気揚々とした写真に向かい、行ってはいけないと声もなくつぶやいた。

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