家屋崩壊パンケーキ

妻が、何の前触れもなく、パンケーキを焼き始めた。十数年来の友人が家に来るのだと。友人を出迎える時の最適解は、パンケーキなのだろうか、と私は反駁するが、妻は聞かない。パンケーキなのだ、と。パンケーキの甘い匂い、これが十数年来の友人を家の前の道にたどり着いた段階で喜ばせられる唯一の方法である、と。ほうほう、なるほど匂いとな。匂いには、よく分からんが不思議な作用があるのは知っとる。記憶が急速に掘り起こされる。パンケーキは、妻に、どんな記憶をもたらすのだろう?妻はパンケーキの匂いを嗅いで、そして十数年来の友人はこの匂いを嗅いで、何を思い出す?
扉が開いた。そこに立っていたのは、私。妻はパンケーキを作るのに、泡立て器を持っていなかった。私が買いに行ったの。買いに行ったのよ。泡立て器片手に鉄製の扉を閉め、鍵をかちゃりと閉めた。チェーンもかけて防犯。妻はパンケーキミックスと水が入ったボウルを片手に立ちすくんでいる。私がただいま。妻がおかえり。パンケーキミックスは、水とは違うのよ、とでも言うように分離して、ボウルの底の方で縮こまっていた。妻は、私が汗水垂らして百均で買い求めた泡立て器を洗うことすらせず、ボウルに突き込む。一心不乱。回す回す。掻き乱す。妻の長髪が掻き乱される。一心不乱。回す。回す。回す。壁や床、他の食器にべちゃべちゃっ、パンケーキミックス!パンケーキミックスがかかった場所は煙を上げて、溶けて行く。床は溶けていって、床の下の基礎の部分がよく見えた。おおぅ、こんな風な作りになってるのね、我が家。と思ってる場合?食器も溶けて、壁も溶け始めてるのよ?壁がドロドロ溶け始めて、その液体がゆっくりどんどん下に向かうから、その液体の道筋ももれなく溶けていって、妻はいまなお一心不乱、回す、回す、右も左も分からなくなったようで、私は混乱、回す回す、壁が溶けて、お隣さんの様子が見える。隣はバンドマンだ。お隣さんがバンドマン?なんてベタな。でも、私たち、夜中にギターのジャカジャカで被害を被ったことなんて一度もないわ。一度もないわよ。と思っていると、こんな真っ昼間からギターをかき鳴らしていた。ように見えたのは、彼が持っていたのはエアギターだったからで、つまり彼が持っていたのは、エアーで、つまり空気なのであって、まぁ、空気くらい私でも持てらぁな、と思って、空気を持ってジャカジャカお隣さんとセツションをしていると、ピタッと私のお気に入りのSupremeの白テーシャツにもパンケーキミックスが。ああ、ああ、溶けてまう溶けてまう。どないしよ。ああ、ウチもともと関西人やないんやったかしら、あら、どないしよ、どないしよ。と言うてる間に、壁から垂れた液体がそれぞれ床に到達し始めthe end. 家は崩れた。消防の人によると半壊なんやって。お隣さんは鋭い悲鳴を上げた。この声の方がよっぽど楽器みたいやった。パンケーキは綺麗に焼けた。妻と、妻の十数年来の友人は甘い匂いに、高校時代のことを思い出したらしく、規制線の外側でキャッキャしていた。パンケーキを焼いたのは正解だったみたい。

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