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まだ読み終わっていない本について

そのままだ。まだ読み終わっていない本について語りたくなった。
世の読書家たちは読み終わった本を読み終わったタイミングで、「♯読了」というハッシュタグの座布団に乗せて感想戦をネットの海に投げ始めるが、私はそんなにマメではないし、そんなペースで本を読み続けられない。このジレンマを感じていた。
「伝えたい。けれど、最後まで読まなければ伝えてはならないような気がする」そんなことはない。今日、ぽん、と気がついた。なぜ今までこのようなものに囚われていたのか。
なぜ本は最後まで読まなければならない?映画館でエンドロールの時点で席を立つ人がいるのに?ホタテの貝柱を残す人がいるのに?朝活を1日で終える人がいるのに?「HUNTER×HUNTER」全巻買いしたくせに3巻までしか読んでない人がいるのに?家にあった「SLAM DUNK」の最後3巻、山王工業戦しか読んでない人がいるのに?

語るべきタイミングは今。感動した今にある。読み終わるのはいつの話だ。1週間後か?1か月後か?そんな先のこと、考えてられるか。その熱量を1週間でも1日でも持たせることができるのか。
NO。
感じたものを感じた瞬間に残すべきだ。地産地消、即断即決、驚天動地、アーメン。

えー、その上で。
今日お伝えしたい作品は、トルストイ著・原卓也訳『復活』(中央公論社,1963)。トルストイなど読んだことがない。どこの国かも知らない。
だが、後で話すけれど、これは最初の1文を読んだ瞬間に買うことを決めた。
あと、硬い。内容が、ではなく、物理的に硬い。
古本である。古い本は硬い本が多い。まず単行本が多い。分厚くて重い。辞書みたいにカバーの中に入っている。『復活』も例外ではない。毎回カバーから外して読む。

本を語るのならその出会いから語らねばなるまい。
『復活』はなんと「無印良品」で出会った。
西宮北口駅の近くに関西最大級の「無印」が最近オープンした。
そこへは単に興味本位で入ったに過ぎない。
その数日前、クイックルワイパーのワイパー部分を強引に回していたら完全に逆方向に折れたので、良いものがあれば買い替えようと思っただけだ。
「古紙になるはずだった本」として4棚くらいで古本が売られていた。古紙にならずに済んだ『復活』。よくぞ耐えた。それでこそ『復活』。お前は古紙としてではなく、読まれることで復活するのだ。

結果的にはクイックルワイパーのワイパー部分は買わず、硬くて分厚い古本1冊を小脇に抱えてセルフレジへ行った。古本をクレジットカード払いで買った。利用明細には何と書かれるのだろう。

そうして家にやってきた『復活』の、最初の1ページをめくったのはたぶんその日の夜11時くらい。

冒頭の文だ。

”何十万人もの人間が、ちっぽけな一つところに寄り集まって、自分たちのひしめきあっている土地を醜くそこねようとどんなに努め、その土地に何一つ育たぬように石を敷きつめ、芽をふく草を片っぱしから摘みとり、石炭や石油でくすぶらせ、木々を切り倒し、動物や鳥を残らず追い払ってみたところで、春は都会の中でさえやはり春だった”(p,5)

がっと心を持っていかれた。
”春は都会の中でさえやはり春だった”
その1文だけで始まっても十分に強い。
けれど、その前段部分、人々の生活の入り組んだごちゃごちゃした感じと、燃料臭さと、人間臭さがあってこそ、春のみずみずしさがここまで際立つ。
砂漠の真ん中で氷河の水を飲んでいるような清涼感。ちからづよさ。

反対に、人間味も感じる。何十万人の人間が、どうにかして狭い土地を奪い合って、押し合いへし合いしながら、土に這いつくばって草木を全身に浴びてなぎ倒しながら、軋む肉体に鞭打って石を次から次へと運びながら、窒息しそうになりながらも生きている。醜い。醜くてダサい。それを隠している。必死さを文明の裏に隠している。だが春は隠さない。思いっきり野性的に芽吹いて、人間の営みを全身で覆い尽くす。覆い尽くして支配する。春に支配された人間は桜の木の下で立ち止まる。立ち止まってフィルムに収め、インスタに投稿し始める。結局、”ちっぽけな一つところ”でしかない。

「文章は端的にすること。一文一意。長い文章は分かりづらい」
そんなことを言う人がいる。もっともな部分もあるが、概ねくそくらえだ。長い文こそ面白いのに。こんなに迫力があるのに。長い文章を読点なんか使わずに一息で書ききったこの文章。この強さが一文一意で分かるのか?いやいや。明日の上司へのメールも読点なんか使わず書き貫いてやろうか。

はい、以上。
1文の紹介だけで終わるレビューがあるので、1文を読んだだけで終わる読書もあっていいと思っている。

大丈夫だ。すべては大丈夫だ。




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