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ミート・ミーツ・ザ・ワンダー・ミート

朝(あした)は来なかった。外套を強く後ろに引っ張る強風は、とても彼には抗いきれなかった。抗ったところで外套は、彼をその場に押さえつけて離さなかった。
彼はとても利口だった。利口で、さらに情緒的だった。だから、強風に晒された外套をすぐさま剥ぎ取り、風の抵抗を無化しようとしたが(実際にそれを剥ぎ取り、より身が軽くなるのを実感したが)、それはこれまで十余年の間、行動を共にした代物。彼にはなかなか手放せるものではない。外套を裏返しにして両腕で包み込むと、そのまままた途方もない大地を行脚していった。

彼と過ごした日々は、私にとってもある意味で大切なものだった。ある陶器を作るときには、彼は先んじて型を取る役目を買って出た。そして、とても簡単に傑作を作り上げてしまう。彼は利口で情緒的で、さらに器用であった。器用さは普段全く披露されることはないが、披露された時は圧倒的である。その陶器は、その後の旅による絶大な風圧と、リュックの内で肩身をひしめき合わせて連なる品々のおしくらまんじゅうに無傷という結果で応えてみせた。

彼は歩いていた。来る日も来る日も歩いていた。ある日はとても腰が痛かった。起床した時に起き上がれないほどの痛みが腰から頭にかけて襲った。襲った痛みは彼の肌を掴み、揺さぶり、そして抱きしめた。痛みが全身に広がる。彼は控えめな、ただ彼にしてはとても大きな呻き声を上げる。呻いていても彼は助けなど求めない。近くに助けてくれる人などいないからだ。彼はどこまで行っても一人だ。起き上がった。痛みは激しく強く彼を包み込んだ。彼は近くの水溜りで顔を濡らすと、今日も歩き始めた。歩みは重く、鈍い。歩き疲れても、歩く。おそらく歩く。こうして先の見えない歩みを続ける。続けていると、徐々に身体全体が温まり、腰の痛みは重く脈打つ。痛みが落ち着いているうちに行こう。彼はリュックの揺れに伴う陶器の打ち合わされる音に歩調を合わせる。

彼は生の難しさに悩まされている。進んでも退いてもそこに待ち受けているのは無。遠く遥か彼方に広がる無なのである。無に向かって歩き、疲れ切ったら無に頭を向けて寝る。無の上に朝日は上り、夕日は無の下に沈んでいく。沈んだままそのまま、そのまま朝が来なければいいと、このまま暗闇のままであったらどんなにいいかと、彼は思った。そして熱心に祈り続けた。寝ている時には手と手を取り合わせ、歩いている時には足の指をぎゅっと中心に寄せ集め、祈った。祈りは当然無に対して捧げるものである。だが祈りも虚しく、いつも朝は来、宵は深まった。ただ混然と生の実感だけがあった。歩き回った末に生地がほつれてかろうじて形を保っているブーツのくたびれが、そのまま彼の生であった。

舌の根っこに直接クリームを塗ったみたいな甘みが押し寄せてきて、彼は目を覚ました。辺りは暗く、夜の闇が一面を重く照らしていた。口の中には何か入れたことのないものが入っている。手のひらに吐き出す。暗くてよく見えないが、柔らかい。もう一度口の中に残ったそれの名残りのようなものを味わうと、それは彼の生に明かりを灯すほどの震えをもたらした。彼は手のひらのものを今一度口に入れた。噛み締めた。噛み締めた。噛み締めた。それは肉。彼の体内に水分などほとんど残っていないのに、瞳の下あたりが疼き始め、水が排出された。それは止まることなく、地面にぼとぼとと溢れ落ち続けた。彼は口を動かし続けた。噛んでも噛んでも甘みは舌の根を襲ってきて、その度に彼は瞳を震わせた。生の実感だけがあった。

そのまま、朝(あした)は来なかった。

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