Franz Snake “Planet Gorge 2”によせて (uccelli)

https://terminalexplosion.bandcamp.com/album/planet-gorge-2

http://www.amazon.co.jp/dp/B00WZ5AKSU/

パンスペルミア仮説をご存知だろうか。生命の起源を地球外から飛来したDNA=「種(spermia)」に求める一見突飛な仮説だが、近年これを支持する海外の研究者も多いらしい。DNAをロケットに載せ、地球外から大気圏へ突入させたところ、うち何割かは生存し活動を続けた、という、この説を裏付ける実験結果もあるようだ。

この話を知った時、私の脳裏にはシメ縄のイメージが浮かんだ。天照大神が再び籠ってしまわぬよう、八百万の神々が天岩戸を縛ったと言われる尻久米縄(しりくめなわ、注連縄=しめなわ)は蛇の交尾を象っており、またDNAと同じく二重螺旋の構造を持つ。それは川の水流であり、夫婦岩のあいだに渡される交合の象徴であり、神域と現世を隔てる結界でもある。

本作 "Planet Gorge 2" は、フランツ・スネイクによる連作 "Planet Gorge" の第2作であり、彼のスタジオ・アルバムでは久々のフィジカル・リリースとなる作品だ。国内Gorgeシーンに最初期からコミットしている彼は、中でもその多彩な作風と精緻なプロダクションで、タムという楽器、そしてゴルジェという音楽の可能性を拡張し続けているブーティストである。

作者によれば、本作は「天孫降臨」神話に基づいたコンセプトアルバムであるらしい。天孫降臨とは、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受け、高天原から葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)に天降(あまくだ)った、という日本書紀にある伝説だ。

降臨ののち、饒速日命は大和地方を豪族、長髄彦(ながすねひこ)と共に治めることになる(=物部氏)。その後長髄彦は、日向からやってきた磐余彦 (いわれひこ)を迎え撃つも敗れる。この際、磐余彦もまた自らと同じく天照大神が地上に降ろした子孫(=天孫)であるという事実を知った饒速日命は、自らのために粘り強く戦ってくれた長髄彦を斬り殺し、磐余彦のもとに下る。こうして大和を平定した磐余彦は、初代神武天皇に即位する。

しかしそもそも、彼ら天孫たちは何処からやってきたのか?彼らの故郷、高天原はどこにあるのだろう?フランツ氏は答える:「饒速日命は天磐船(あめのいわふね)=岩で出来た船に座乗していた。なので、やはり岩の惑星から来たのだろう」。そしてこの連作 "Planet Gorge" は「そのゴルジェの惑星 (planet of gorge) を描いた架空の映画の、架空のサウンドトラック」であり、「前作は磐余彦の、今作は饒速日命の、ゴルジェの惑星への望郷を描いた作品」だという。

記紀はもともと、為政者としての自らの正統性を示すため天皇家が編んだテクストであり、必然的に神域と現世の連続性を前提とする、つまり神話と史実が(あえて意図的に)綯い交ぜにされたものである。

磐船神社(大阪府交野市)は淀川の支流・天野川が作る峡谷に位置し、饒速日命を祭神、そして件の「岩で出来た船」=天磐船と呼ばれる巨石を御神体とする。この天野川は七夕伝説の起源とも言われている。つまりは「天の川」=銀河(Galaxy)なのだが、ではこれを見立て、この川に名を与えたのは神話に思いを馳せた人間なのか、はたまたゴルジェの惑星に思いを馳せた神々なのか?

何故神々は天上から「降りて」くるのか。そして何故人々は死ぬと天に「昇り」、星になるのか。何故神々は人間に重力を与え、自らそれを覆すのだろう。そしてこれらの問題は「何故人は山に登るのか」と同一平面上にある問題なのではないか?

…と、かように本作のコンセプトは遠大なスケールを持つものであるが、ここに展開される音楽にはそのようなとっつきにくさは微塵もない。ともすればダークでダーティな音像に陥りがちなゴルジェだが、本作でもフランツ氏はタムのマッシヴさを損なうことなくクリアな色彩を実現する。その鮮やかな手腕には舌を巻くばかりだ。

ゴルラップ中興の祖であるdizzyとメガネによる、ラップというよりは呪文のような”Gorge and Rhyming”、ポエムコア・アイドルowtn.がヒマラヤ8000m峰の名を呟き続ける”The Names of the Mountains”、そして「本歌取り」的フレーズサンプリングによる楽曲群は、ヤマトウタとしてのGorgeに新たな地平を切り開くものだといえるだろう。

現在作られるすべての音楽は、音楽についての音楽でもある。Gorge Public Lisenceは本来、その再帰的定義における脱出条件として存在し、またそのように活用されるべきものなのだ。それをこの音楽自身が雄弁に物語っている。

ともかく2015年、岩と太鼓にシメ縄が揃ったのである。揃ってしまったのである。誰にも責任はとれまい。

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