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松濤美術館でみた展示のこと

舟越桂が亡くなった。
土曜朝に寝起きでいじっていたツイッター、毎日新聞のポストで知った訃報は、まさに寝耳に水だった。

わたしが舟越桂の名前と作品を合わせて認識したのは、2019年か20年かそんなところだったと思う。
訃報を知らせるネットニュースの見出しにもなっていた通り本の装丁にも多く使われていたから、その彫刻作品を小説の表紙で目にしたことは度々あった。
おそらく多くの人と同じように、特に天童荒太さんのハードカバーで印象に残っていたように思う。
一度見たらそうそう忘れられないような個性を持った作品だから覚えてはいたものの、作者の名前すら知らなかった。
2019年に通い始めたお彫刻教室で先生の口からその名前を聞き、そこで初めて「あの彫刻を作ったのは舟越桂さんという人らしい」と知った。
とはいえ彫刻のことなんて何も知らないうえ人物彫刻に対する興味は特に薄かったから、そこで何か変わったわけでは無かった。

初めて直にその作品と対面したのは2020年12月16日、松濤美術館の展示『私の中にある泉』だった。
なんで足を運んだかといえば、先生から門下生たちに向けた「這ってでも行くべき展示」という猛プッシュがあったためだった。
たまたまそのお知らせを見た翌日はわたしの誕生日で、用もないけど好き勝手な一日を過ごそうと休みを取っていたから、「そんなら行ってみようかな」という気まぐれで決めたに過ぎなかった。

初めて訪れた松濤美術館は落ち着いた雰囲気の素敵な空間で、「地下からです」と案内されて階段を降りた先の展示室で最初に目に入ったのは『妻の肖像』だった。
特別華やかというわけでもない(というかむしろ地味と言ってもいいほどの)華奢な女の人の半身像だったのだけれど、近距離で目にした時にそのなんとも言えない美しさにドキドキして初っ端から「こ、これは……!?」と思ったことを覚えている。
『妻の肖像』や『中野の肖像』といった最初期の作品から代名詞にもなっている美しい石の眼が入った肖像たち、さらには「異形」と呼ばれる作品からフロアを上がってスフィンクスシリーズへ、家族への愛が溢れる本当にかわいいおもちゃに、舟越保武、道子、直木という偉大な家族たちの作品。
全部を、夢中になって見た。
不思議なほどの静けさをまとった作品たちと対面するのは本当に楽しい時間だった。

他の作品たちの静謐さがまた、2階に展示されていた『戦争をみるスフィンクスII』から見える感情の大きさを際立たせているように思った。
目の前にしたスフィンクスからは、怒りと哀しみがとめどなく溢れるようだった。

気まぐれに足を運んだだけのつもりが思いがけず心躍る楽しい時間になり、帰り道ではすでにまた行きたくてうずうずし、ゴムまりが跳ねるような気持ちになっていた。
本の装丁で目にした作品たちだって充分に綺麗だったけれど、自分の目で直接見るのはこうも違うかと本当にびっくりした。
本でも映画でも美術展でもなんでもいいけど、面白いものはたくさんある。感動するものもきっとある。
でもあんな風に心の底からわくわくエネルギーが湧き上がってくる経験は、そうは無い。
帰り道、交差点のビニールシート越しに見える草の影すらやたら美しく見えた。
結局、初めて訪れた12月半ばから翌1月末までの間、松濤美術館には都合5回通った。

あの展示は奇跡のような空間であり同じような規模で作品を見られる機会はなかなか無いかもしれないけれど、過去に作られたものを少しずつ見に行ったり、新作展示があると聞けばこれまで自分の生活にはご縁のなかった画廊なんぞ訪れてみたりもした。
まだまだ、この先もまた新しい作品を見ることができるんだろうと、疑ってもいなかった。

世に残った沢山の作品たちはまた見に行くことができる。
わたしはまた、それを見るために出かける。
でもそれを作る人はもういなくなってしまった。
今はとても、とても寂しい。すごく寂しいです。

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