【2020何を考えていたフェア】「オンライン化された大学」を語るために 植田将暉さん

 自己紹介にかえて、今年6月に早稲田大学のWebマガジン『早稲田ウィークリー』に掲載された記事をご覧ください。「オンライン化された大学」に対する、ぼくの基本的な考えはここに示されています。
https://www.waseda.jp/inst/weekly/news/2020/06/11/75525/
また、より個人的な活動については、やや古いですが、こちらのnoteを参照いただければと思います。
https://note.com/uprat/n/n0a1e17e22df9

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思考と語りの「身ぶり」について

 今年、大学は門を閉ざした。比喩ではなく現実として、あらゆる国や地域で、ほとんどの大学のキャンパスから人影がなくなり、学生や教師や大学で生きてきた多くの人たちが門の外に締め出されてしまったのだ。
 感染症の拡大防止という社会的な要請がその背景にあったとはいえ、きわめて衝撃的に受け止められるべきこの「締め出し」によって、わたしたちの多くは——ともすれば、これまでは自明なものとしてそこにあった——「大学」という空間や制度についてあらためて考え直すことを余儀なくされた。そのなかで、とくに注目すべき問題として浮かび上がってきたのは、今年、人びとが締め出された身体=空間的なキャンパスのかわりにあらわれてきた、「オンライン化された大学」なるものである。
 それはあくまで緊急避難的に、仮設的に構築されたものであったとはいえ、「オンライン化された大学」がかなり多くの問題をかかえているということは、すでに多くの指摘がなされているのを目にすることができる。と同時に、これまでも少なくない議論や構想は提示されながらも実際に形となることは少なかった「大学のオンライン化」が、こうしてはからずも大がかりに実現し経験されたことによって、その利点や可能性も見いだされてきた。
 しかしながら、わたしたちはこの出来事をあまり充分には受け止められていないようにも思われる。それはメディア論的な限界があらわれているだけなのかも知れないが、たとえばTwitterなどのソーシャルメディアでは、対面授業の再開をもとめる主張とオンライン授業の継続をもとめる主張がひたすら打ち出されるばかりで、どこまでも「断片的に」流通している光景が目にされる。これはいささかも「知」的なすがたではないし、また「大学」的なありかたでもない。そこでわたしたちに求められるのは、「(オンライン化された)大学」をめぐる、新たな思考と語りの「身ぶり」を立ち上げていくことなのだ。

アガンベンの「オンライン化された大学」批判

 たとえば、現代を代表するイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、この夏に発表された論考「学生たちのための鎮魂歌」のなかで、オンライン化によって「大学」という「生のかたち」(forma di vita)がすっかり変貌してしまう——あるいは失われてしまう——と主張している 。そこでアガンベンは、大学のオンライン化という「技術的野蛮さ」を拒絶し、学生たちに「新たな大学」(nuove universitates)を立ち上げるよう訴えかけるのだ。
 イタリア語で発表されたとはいえ、早々に英語に訳され、日本語でもすでに複数の訳文を読むことのできるこの論考が、対面授業の早期再開をもとめる学生やその支持者も少なくない日本においてあまり注目されていないことは、いささか奇妙に思われる。しかしそこに立ち止まっていても仕方がない。筆者がここで提示しておきたいと思うのは、「(オンライン化された)大学」をめぐって新たに思考するために、たとえばアガンベンの主張をどのように受け止めてみせるかということなのである。

【注】
ここで取り上げた、ジョルジョ・アガンベンのテクスト「学生たちのための鎮魂歌」は、イタリア哲学研究所(Instituto Italiano per gli Studi filosofici)のWebサイトに読むことができる(イタリア語)。
https://www.iisf.it/index.php/attivita/pubblicazioni-e-archivi/diario-della-crisi/giorgio-agamben-requiem-per-gli-studenti.html
また、本稿を執筆するためには利用しなかったが、いくつか英語や日本語への翻訳もインターネット上に読むことができる。

思考を歴史のなかに位置づけること

 そのための身ぶりとして考えられるのは、まさしくアガンベンが「学生たちのための鎮魂歌」というテクストとして実践しているように、いまここにある「オンライン化された大学」という出来事を、わたしたちの歴史や思想のなかに位置づけてみることである。そのとき、いまわたしたちが一人でかかえている体験や感情は、これまで他の多くの人たちが考えたり語ったりしてきた言葉たちにつぎつぎと接続していくだろう。大学に生き、そのなかで学ぶわたしたちが立ち上げていくべき「知」は、けっして断片的に流通し受容されるようなものではなく、ある「まとまり」として——ときに取り込まれたり分岐したりしながら——構想されていくものなのだ。しかしながら、そのような連帯や絡まりあい、あるいは「言説の場」への意識が、「オンライン化された大学」をめぐって——とりわけインターネット上に——放たれた言葉たちのなかにはあまり見受けられない。そのことが筆者にはどうにも受け入れがたい。
 また、「オンライン化された大学」において指摘されているのは「新しい」問題なのだろうか、という論点も示しておきたい。大学のオンライン化にあたっていちばん象徴的に感じられたのは、人のいなくなったキャンパスがまるで「廃墟」のように見えたという経験なのだが、そこで思い出したのは、『廃墟のなかの大学』という書物のタイトルだった。1996年に書かれた題名が、いま「ふたたび」鮮やかに感受されている。つまり、新型感染症や大学のオンライン化といった一見すると「新しい」出来事によって引き起こされた問題は、じつのところ、わたしたちがこれまでに——幾度となく——直面してきた問題なのではないか、と筆者には思われてならないのである。
 たとえばキャンパスをとりかこんで、わたしたちをそのなかに入れないようにしている門や柵は、今年より前からそこにあったものだ。学生たちがキャンパスに滞在せず、授業が終わればすぐに大学を立ち去ってしまうということは、何年も前から指摘されてきた。学生たちの貧困や、教職員の労働環境や、大学経営の困難については、すでに多くの指摘や議論がなされてきた。だから、いま考えなければならないのは、古くからの問題が「新しい装いで」あらわれており、それをどのように受け止めていくかということなのである。そこで、新しい出来事は、たんに「新しい」語りを生みだすだけでは解決されず、「これまでの」語りに真摯に耳を傾けていくことが不可欠であるはずだ。
 それはおそらく、地道で退屈な作業となるだろう。なにか新奇でドラマティックな展開があらわれるということもない。むしろ、頑固で変化を拒む問題の数々を目の当たりにし、すっかりウンザリしてしまうかもしれない。だが、それでもなお、わたしたちは思考せねばならず、それをつうじてのみ、「新しい大学」を立ち上げることは可能なのだ。

退屈さの大がかりな連帯に向けて

 その地道さや退屈さは、おそらく、「テクストを読む」といういとなみにもつながっている。それがとりわけ学問的な内容となればなるほど、目のまえに突きつけられる文字たちは頑固で厳しく、ときにはわたしたちを挫折させようと企んでいるのではないかとも勘ぐってしまうほどに、苛酷なものだ。そしてなんとか受け止められたと感じても、一息つけば、たちまち言葉を見失ってしまうという、困惑に困惑を重ねていくしかない体験に襲われるかもしれない。とほうもない無力感、これまで積み重ねてきたわたしたちの知識が、すっかりその力を失って、呆然として立ち尽くしてしまう。
 そのような驚き、眩暈、崩壊感覚といった「危機的」な瞬間を、蓮實重彦は、「批評」的な体験、すなわち、わたしたちがまったく新しい「知」の地平や枠組みを立ち上げてしまうための契機として掬い上げる。いまここに突きつけられている「新型感染症」という出来事も、また、新たな「知」を立ち上げる可能性として受け止められようと思う。わたしたちがもしかすると純粋な科学的進歩によって乗り越えられたと思い込んでいた感染症は、今年、真実や科学知をめぐる政治の熾烈さや、われわれの立脚してきた「近代」の諸制度の脆弱さなどに、わたしたちを気づかせることになった。もちろん、それらの問題はあまり新しいものとは言えない。すでに多くの言説が積み重ねられてきた。だが、この出来事で、わたしたちは自身の生々しい現実経験にもとづいて、また新たな「語り」を生みだしていけるということも確かだろう。だから、いま求められているのは、いまだ語られていない細部を掬い上げ、すでに語られてきた言葉たちと響きあわせ、そして、ときに世界をすっかり変貌させてしまうような力をもつだろう、思考と語りを、言葉たちの大がかりな連帯を、新たな「知」を、力強く提示していくことにほかならない。

「知」の余白へ

 そこでひとつ参照されるべきテクストとして、ぼくはジョルジョ・アガンベンの「学生たちのための鎮魂歌」に注目した。筆者は、新型コロナウイルス感染症にともなって社会のなかに浮上してきた問題は、ひとつにはアガンベンのいう「大学」という「生のかたち」の変容であり、もうひとつには、従来からアガンベンが取り組んできたテーマのひとつである「例外状態」や主権や統治性のあらわれであると考えている。前者についても後者についても、平時はたとえば「イタリアン・セオリー」として流行めいて語られながら、けれども、あるいはそれゆえに、この危機的な事態のなかではあまり現実的な思考として受け止められていないように見受けられる。しかし、本当にそうなのだろうか?
 これはおそらく、しばしば「現代思想」と括りこまれてしまう哲学の一領域にかぎったことではない。多くの分野で、あまりに多くの「知」や言説の蓄積が、不注意や不勉強によって、誰にも読まれることなく、また書き継がれることもなく、まどろんだままに放置されている。そのような「知」を覚醒させ、出会わせ、この世界にはたらきかけていくための戦略的な拠点として、「大学」という制度はかたちづくられてきた。そのような「身ぶり」を取り戻すこと、再起動させていくことが、いまわたしたちの課題である。
 そこには多くの困難がある。とくに今年は、「感染症」という問題があまりに強烈に付け加わってしまった。オンライン化された大学は、はたして、新たな「知」を立ち上げていくための「言説の場」たりうるのだろうか。困惑や不安は尽きない。未来はいまだ不透明だ。けれども、わたしたちはとにかく、いま目のまえにある具体的なことがらに、ひとつひとつ向き合っていくしかないはずだ。そこに書かれてあるテクストを、ひたすら虚心坦懐に読んでいくこと。そこに新しい思考や語りが立ち上がってくるだろう「知」の余白とは、黒ぐろと書きつけられた言葉たちのあいだに、ふと開かれているものなのである。

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「オンライン化された大学」を考えるための参考文

1.大学のオンライン化について、ある程度の論考がまとめられているものとしては、雑誌『現代思想』2020年10月号「特集 コロナ時代の大学——リモート授業・9月入学制議論・授業料問題」が挙げられる。 たとえば、ここに収載された大橋完太郎「変容する大学の身体」では、著者が専門としている表象文化論やフランス現代思想の視点から、オンライン化が大学のなかに「時間の複数化」などをもたらすことなどが指摘されており、興味深く読まれた。各自がみずからの専門知にもとづいて、それぞれの観点から、「オンライン化された大学」について語りを提示するという機会はもっと設けられて良いように思われる(もちろん、そこで語る主体は教員や学生だけには限らないはずだ)。また本稿でも取り上げた大学の「廃墟」化という現象は、この論考のなかでも印象的に取り上げられている。http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3484

2.「危機的」な体験を「批評」の立ち上がる瞬間として受け止めていく身ぶりについては、蓮實重彦『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房、1974年)「眩暈、そしてその戦略」を参照されたい。フランス現代思想や日本における蓮實重彦の批評こそ、ある危機的な出来事に直面したとき、新たな「語り」を立ち上げていく身ぶりや戦略の好例として読むことができる。また、蓮實の批評やそれを生みだしているテクスト読解は、そこに書かれていることを虚心坦懐に読み込み、そこからすっかり新しい「知」の地平や風景を提示してみせる、鮮やかな手本となるはずだ。

3.本稿で注目したジョルジョ・アガンベンについては、多くの著作が翻訳されており、概説書なども豊富である。そのなかで1冊を選ぶとすれば、ぼくは『書斎の自画像』(月曜社、2019年)をまず手に取ってみたい。理論的な著作というよりは「自伝」と呼ばれるにふさわしいそのなかでは、アガンベンが自分の書斎を見渡しながら、他の哲学者らとの交流や、過去の体験や思索を振り返ってゆく。そこで実践されている「本棚をながめてまわる」という身ぶりは、新型感染症によって(少なくとも一時期の、ほとんどの)大学とその図書館や本屋から失われてしまったものだった。その重要性をあらためて噛みしめておきたい。と同時に、そのような「みてまわる」体験はじつのところ自分の部屋の本棚や、さらには「紙の書物」という空間のなかでも経験しうるのではないか、ということもこの半年間に強く感じていたことだった。とはいえ、大学生の部屋の本棚も、そこにならぶはずの紙の書物も、どちらも少しずつ消え去っているように思われるのだが…。
http://getsuyosha.jp/kikan/isbn9784865030808.html

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