あるタナトフォビアの懊悩

※本ノートは、極めてデリケートな内容を扱っています。読む事によって、強い不安に駆られたり、精神に変調を来す可能性もあります。気分障害や不安障害等に罹患のかたなどは、特にご注意ください。

について深く考え込んだ経験というものは、誰しもあるものと思います。それは、死んだらどうなるか?という問いから始まる、思考の旅です。

私は、子どもの頃から、物事を深く考える癖がありました。これはどうなっているのか、と考えたら、それに対する反論も自分で考え、ひたすら思考し続けるのです。ある種の完全主義と言えるのかも知れません。なる概念についてもそうでした。死んだらどうなる? 感覚は?(もちろん子どもの頃は、こんな言葉は知りません) 意識は? 近しい人間が死んだらもう会えないの? ……こういう事を考えて、どうしようも無い恐怖に襲われたのです。確か、小学三年生くらいの頃だったでしょうか。

その次は、19歳くらいの頃だったと記憶しています。年月を重ね、ある程度、知識もついてきます。まあ、良くも悪くも、賢くなってくる訳です。その時にまた、死について考え込んでしまったのです。状況的にも、色々と思弁する時期でもありました。

多少賢くなってきているので、死というものへの恐怖が、より具体的に認識されます。そしてそれは、死なる概念の奥底にある、虚無への恐怖である事も認識してしまいます。死んだらどうなる? その先は? それは無なのか、無とはどういう状態か、感覚は? いや、そもそも状態なる概念自体がそぐわないものではないのか、人間の五感の外にある何か、否、何か、なる語では何かの概念を指している。そうでは無く、絶対に言語では指せないものなのだ……。

その頃は、哲学的なものに興味があったので、カントのアンチノミーみたいな概念も知って、宇宙に端があるとすればその外はどうなっているのか、といった事も、ひたすらに思考しました。それとともに、世界観・自然観として、唯物論的なものが形成されていたので、虚無に対する恐怖が、絶望となって、のしかかってきたのです。神などの超越的な概念に縋り頼る事も出来ず、目的も到達点も何も無く、待っているのは、ただただ虚無のみである、と。ニーチェの永遠回帰もくだらない、ただ気を紛らわせるものに過ぎないのだ、と。

そうなると、身体的な、感覚となって恐怖が顕れます。心臓の後ろ、肛門の前、あたりに悪寒が走るような、引き摺られるような、あれです。この、虚無に対する恐怖は、ふとした時に顕れては消える、癖あるいは発作、のようなものとして、心にこびりついてしまったのです。

それから結構な歳月が経ち。

その発作的な思考が、閾値のようなものを超えてしまいます。これ以上考えてしまったらヤバイな、という所を。その思考は、強い身体的な症状をも出現せしめました。胃の強い不快感、常時感ずる、まるで空気に溺れているような感覚、そして、あれがずうっと纏わりつく、そういう状態です。今までは、ひょこっと頭を出す程度だったものが、箍を外して、心も身体も呑み込んでしまったのです。

そうなると、数週間は、ほとんど何も出来ません。文章を読んだり、食事をする事もままなりません。入浴中も不安に苛まれます。悲しく無いのに涙が出ます。悲しく無いのに悲しくなります。周りのものの尊さを思い、涙が出ます。でも尊いものも結局は虚無に呑まれるのだ、と絶望します。世界が狭く感じます。観念だけでは無く、身体感覚として、です。一体何で自分が、となります。何でこんな事を考えなくちゃならないのか、考えてしまうのか。

自分の脳から、この部分に関わる記憶だけ消え去れば良いのに、と嘆きます。ただただ絶望します。

唯一助かったのは、眠れないという事は無かった、という所でしょうか。ここだけはラッキーでした。こういう所は実に現実的・実際的・具体的です。

これが数週間続くのは、さすがに堪りません。精神科を受診します。でも、困るのですね。死の恐怖から身体的な症状が出た、という話が果たして受け容れられるのか、向こうも困惑するのではないか、と。
相手もプロなので、真剣に話を聴いてくれます。少しは楽になりました。もちろん、死や虚無の恐怖について解ってもらえた、とは思いません。タナトフォビアなる恐怖症を主治医が知っているかも聞きませんでした。医師に、恐怖症なのか、と問うと、恐怖症よりは強迫観念の類だろうと言われました。

投薬されます。レクサプロ(SSRIの一種)等です。これをしばらく続ける事で、だいぶ楽になってきました。日常ではあまり死について考えなくなったし、考えても、閾値を超えず、なんとか留まれるようになりました。
薬が効いたかは判りません。単に時間経過に伴う、他の変数の変化がそうさせたのかも知れません。薬を飲んだという思いがそうさせた、いわゆるプラセボ作用なのかも知れません。大脳で起こっている事、ドパミンやセロトニンなど神経伝達物質の振る舞いなど見えはしません。

でも、改善されたのだからどうでも良いと考えました。そういうものなのです。私は普段、医療において積極的にプラセボを使用すべきで無い、と主張しますが、実際の臨床ではこういう事もあると認識しているし、何であっても、効いたと認識すればそれで良いのだ、という事も考えているのです。

それから数年、再び症状が襲います。最初の時よりは幾分かマシなものでしたが、死と虚無に纏わる絶望的な思考と、耐え難い身体症状、それらが自身を飲み込もうとする、事に変わりはありません。ちょっとした物音で背中辺りに悪寒を衝撃が走るような、いわゆる聴覚過敏のような症状も出現しました。

きっかけは解りません。(主治医の指導の下で)断薬をしたからかも知れませんし、他の生活上のストレスが強い因子となったのかも知れません。いずれにしろ、また起こってしまったのです。再び起こるというのは解り切っていた事ですが。

これは、「再び起こる」「いつ起こるか判らない」という恐怖を惹き起します。思考を振り払おうとしても、少し落ち着いても、ぽつぽつと泡が立ってくるように、心身を苛みます。いわゆる やる気というのも出にくいのです。何をやっても、待っているのは虚無、という観念が浮かぶのだから、当然と言えます。あらゆる観念・概念が、虚無に繋がり、絶望の渦に引き摺り込まれるのです。

死や虚無というのは、あまりにも普遍的なものです。絶対に、どうやっても逃れようが無い。それに対する恐怖症というのは、具体的な存在への恐怖症とは、異なった恐怖を植え付けるのかも知れません。これは、どっちのほうがひどいとかマシとかいう話ではなく、どちらもキツイ、というものでしょう。中には、具体的実体であり普遍的な物もあるでしょう。(地球上では極めて普遍的であり、生存に不可欠な)空気や水などの恐怖症があるとすれば、それも凄まじい恐怖に苛まれるに違いありません。

これが、一人のタナトフォビアを持つ者の経験・思考の記録です。ここでタナトフォビアと言うのは、不安障害の具体的症例を指すというよりは、通俗的な意味をも含めたケースを表している、とします。

何故そもそも、こんな文章を書こうと思ったのか。正直な所、自分でもよく解らないです。読んだ人の共感を得て心が楽になるかも知れないから? でも、他のタナトフォビアの人に共感を得られたとして、それが何になる、結局それすら無意味では無いか……こういうのがタナトフォビアから虚無主義に呑み込まれそうになっている人間の思考です。そういう意味で、安易なる共感の希求というものとも縁遠いのかも知れませんね。

不安障害の一種としてのタナトフォビアの保有割合がどのくらいのものか、私は知りません。各種精神障害等の統計について見た事はありますが、こういう具体的なものについては、どんなものでしょうか。そもそも、あまり調べたく無いという認識もあります。考え続ける事によって、更なる絶望に捕らわれ抜け出せなくなるのでは、という恐怖もあるからです。でもこんな文章を書いているのは、多少落ち着いているから。書きながら、推敲をしたり装飾したり、そういう事が出来るだけの状態ではある。けれど、下手したら呑み込まれるかも、と考えながら、綱渡り状態で書いているのでもあります。

書くきっかけの一つとして、はっきりしているものもあります。結城浩さんの文章を読んだから、というものです。

進化論的世界観

大変興味深く読みました。結城さんはクリスチャンですが、あの虚無の深淵を覗きながら、信仰という方向に行けた人がいるのか、と。いや、少し可笑しくなったのです。ここで可笑しいとは、皮肉とか揶揄とか、そういうのでは全然無くて、ああ、あの虚無、あの絶望に呑み込まれそうになりながらも脱出して信仰の道に行く人もいるのか、人間の思考というものは、かくも複雑で、かくも面白いものか、と。結城さんは、進化論的世界観(という表現が適切かは措いて)について、

非常によくない。害毒を流す考え方

とまで仰っています。いや、その通り。実際その通りなのです。確かに。何だか少しだけ、心がすっとなった気がしました(変ですよね)。心とは、あるいは認識とは、なるほど割り切れないものです。

私は、強烈な信念として、一切の超越的・宗教的概念・観念というのは、人間が死と虚無の恐怖・絶望から逃れるための概念装置でしか無い、というものを持っています。全くの唯物論的・無神論的世界観(結城さんが仰る所の進化論的世界観)です。だから虚無が恐ろしい。待つのは虚無のみだから、一切の目的も到達点も何も無い。神などの超越的概念は、虚無から逃れるための楔のようなものでしか無い、という信念。でもこれは、世界はそうなっているのだという主張などではありません。先に書いたカントのアンチノミーのごとく、人間の理性によっては検証不能な部分です。経験・現象についての理解から帰納しているだけのもの。正しい保証など どこにも無いもの(誰が保証する?)。もう、そうなってしまったのだから、しようがありません。自然数が無限に可算出来るように、常に、虚無を後に置いてしまう(いやもちろん、置けるものでは無いのですが)。

自然科学的思考と無神論的思考がハイブリッドされてこうなってしまった。ただそれだけの話です。

もしこの絶望から離れるとすれば、可能性としては、完全に絶望に呑み込まれたり、あるいは傷病によって認知機能が破壊される、とか、紹介した結城さんのように、宗教的な方面(信仰)に行く、というものがあるでしょう。後者になる蓋然性は低いだろうな、と自覚しています(神などは単なる概念装置だと確信してしまったから)。

はっきり言うと、私は若い頃に、「将来は発狂する可能性が高いだろうな」と考えました。そもそも、最初の強い発作から、よくここまで戻って来られたなと思っています。薬のお蔭なのか何なのかはよく判りませんが。何にせよ、たぶん理性を保てたまま、今もここに居ます。

いずれにしても、死と虚無の絶望からは、そう簡単には逃れられそうにありません。そして、この事が実感として解る人も、そうはいないでしょう。ここを読んでいるかたの中にも、「自分のあれと同じなのか」「ほんとうにあれを体感したのか」と、興味を持ったり訝ったり、色々の読みがなされている事でしょう。

ああ、楽になりたいものですね。ほんとうに。でも、うつ病で起こるような希死念慮はありません。これがタナトフォビアの特徴なのか、私固有のものなのかは知りませんが(うつ病とタナトフォビアが同時に発症する場合もあるのでしょうが)、自分にとって死はあらゆる恐怖に勝るが故に、それに至る自死というものを選択する余地が無いのです。今の所は。心理検査でも、希死念慮を測っているであろう検査項目の点は、端のほうでした。これは、ある種のコンフリクトですね。自分でも、その厄介な思考が嫌になってきます。

ああ、楽でありたいですね。願わくは、心安らかでありたいものです。

最後に。

私がここで書いたような事に心当たりのあるかた、同じような発作を経験した事のあるかたで、医学的処置を受けていないかたに対しては、一度、心療内科や精神科を標榜する医療機関を受診してみても良いのではないか、と思います。これは、アドバイスなどではありません。薬を飲んだ所で良くなるとは限らない、医療者に理解を得られるとは限らない、というのは、私自身がよく解っているし(だって、今まさに、しばらく落ち着いたのにぶり返した状態なのですから)、他者へのアドバイスなど烏滸がましいとも思うからです。

ただ、可能性を模索する道を辿っても良い気はします。人間の心も身体も、自分にはままならない部分があるので、もしかしたら、薬や精神療法で、幾らか楽になるかも知れません。そういうのは考えておいて良いのではないかなと。ああ、やっぱりこれは、「アドバイス」なのかも知れませんね。それによって、自分も何かした、なし得た、と認識しようとしているのかも知れません。待っているのは虚無なのに。やっぱり厄介な思考です。

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