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他人の物語から自分の物語へ。 遅いインターネットの論点その①

宇野常寛さんの著書『遅いインターネット』に興味深い論点がある。それは、彼が著書でまとめている「文化の4象限」の議論だ。「文化の4象限」とは近年の文化現象のダイナミズムを4つのカテゴリーで分類したものである。

横軸に、日常非日常の対立軸が置かれ、縦軸に他人の物語自分の物語の対立軸が置かれている。これは一体何を意味しているのだろうか。例えば、映画の台頭は20世紀前半に起こった象徴的な文化現象だったと言える。映画館という密室な空間に、巨大なスクリーンと洗練された音響により、観客は現実世界から離れ、非日常な世界を味わうことができる。そして、スクリーンの中の主人公と同化し、他人の物語を自分のこととして享受する。これがまさに、非日常×他人の物語として第1象限に分類される。かつて物語の力で影響力を持った文学は映画の台頭によりその存在感を小さくする。その後、20世紀後半になるとテレビが世界を覆い尽くす時代が到来する。一家に一台テレビがあり、誰でも手軽に映像が観れる時代だ。テレビという娯楽は、かつての映画の様に巨大スクリーンもなければ高品質な音響もない。その分、私達の日常に深く溶け込んでおり、日常×他人の物語とされ第2象限に分類される。また非日常×自分の物語である第4象限には、今世紀のライブエンターテイメント等の復権が例としてあげられている。SNSにより自分の物語の発信力を手にした人々は積極的に現場に足を運ぶようになる。インスタ映え的なものに象徴される様に、SNSという補助輪を得ることにより、自らの体験を誰もが物語化できるようになったからだ。その結果、ディズニーランドやフェスから渋谷のハロウィンまでの旧い文化領域は完全にアップデートされたのだ。

宇野さんはここで第3象限(日常×自分の物語)に分類される新しい文化が生まれてないのではないかとの問題提起をしている。そして第3象限(日常×自分の物語)こそが今求められているのではないかと主張する。インターネット時代に人々が自分の物語の快楽を知ってしまった今、他人の物語に逆戻りすることはできないし、非日常的自分の物語をただ消費し続けるだけでもダメだと宇野さんは考える。これはインターネットで政治を変えると標榜していた、いわゆる「動員の革命」と呼ばれた一連の騒動が単なる一時的なお祭りで終わってしまったという分析に基づいている。非日常の祝祭的なものではなく、私達の日常と紐づいた自分の物語の回路が必要であり、その鍵になるのが『遅いインターネット』的なものだというのが宇野さんの言いたいことなのではないかと思う。

私は、個人的にはこの「文化の第4象限」ほど上手く近年の社会現象をまとめられているものも少ないのではないかと思う。こういうの整理させたら宇野さんは最強ではないかと思う。ただここでは深く語られていないが、私が面白いと思った論点として他人の物語は本当にもう必要とされないのかという問題がある。宇野さん的にはもう必要とされないというニュアンスでこの本は書かれていたように思える。でも本当にそうなのだろうか。他人の物語に慣れすぎた平成生まれの私としては少し寂しい気がしてしまう。他人の物語の時代が到来することを密かに祈ることにしよう。


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