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走れウノス

※先週の渾身の記事です。こちらも是非ご覧ください。


ウノスは激怒した。必ず邪智暴虐の社長を除かなければならぬと決意した。ウノスには労基法がわからぬ。ウノスは、街の会社員である。酒を飲み、女と遊んで暮して来た。けれども働き方に対しては、人一倍に敏感であった。

きょう未明ウノスは会社を出発し、野を越え山越え、十里はなれた東京の街にやって来た。ウノスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、街の安定した公務員を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。ウノスはそれゆえ、商談のついでに、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる東京にやって来たのだ。

先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。ウノスには竹馬の友があった。ユズレンティウスである。今は此の東京で、同じ会社の本社で勤務をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。

歩いているうちにウノスはあるオフィスビルの様子を怪しく思った。騒がしい。もう既に日も落ちて、まちが明るいのは当りまえだが、けれども、なんだか、街の灯りせいばかりでは無く、ビル全体が、やけに騒がしい。のんきなウノスも、だんだん不安になって来た。受付前で若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに近くのビルに来たときは、この時間は静かだったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。

しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。ウノスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。


「社長は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「甘えている、というのですが、誰もそんな、甘えては居りませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、はじめは社長の妹婿さまを。それから、御自身の執事を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、専務のアレキス様を。」
「おどろいた。社長は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、部下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、終電までのサービス残業を命じます。御命令を拒めばパワハラをし、自殺に追い込まれます。きょうは、六人殺されました。」


 聞いて、ウノスは激怒した。「呆れた社長だ。生かして置けぬ。」
ウノスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ社長室にはいって行った。たちまち彼は、警備員に捕縛された。調べられて、ウノスの懐中からはボイスレコーダーが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。ウノスは、王の前に引き出された。
「このボイスレコーダーで何をするつもりであったか。言え!」代表取締役ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その社長の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。


「社員を、ブラック企業から救うのだ。」とウノスは悪びれずに答えた。「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とウノスは、いきり立って反駁
した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。社長は、社員の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。社員の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、社員の幸せを望んでいるのだが。」
「なんの為の職場だ。自分の地位を守る為か。」こんどはウノスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が幸せだ。」
「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、給料未払いにするぞ。泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、社長は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、ウノスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」


「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。夜逃げした男が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」ウノスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この会社にユズレンティウスという係長がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人の給料を未払いにして自殺に追いやって下さい。たのむ、そうして下さい。」


それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑
んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を給料未払いにしてやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。


「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りはきっと死ぬぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」


ウノスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、ユズレンティウスは、深夜、王城に召された。代表取締役ディオニスの面前で、佳
き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。ユズレンティウスは無言で首肯き、ウノスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。ユズレンティウスは、縄打たれた。ウノスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。


ウノスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、街へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、街人たちは出勤しはじめていた。ウノスの十六の妹も、きょうは兄の代りにメルカリの発送業務をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでも無い。」ウノスは無理に笑おうと努めた。「東京に用事を残して来た。またすぐ東京に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」 


妹は頬をあからめた。
「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、街の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」
ウノスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。


眼が覚めたのは夜だった。ウノスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の公務員は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、ボーナスの季節まで待ってくれ、と答えた。ウノスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の公務員も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。

結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた街人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたった。ウノスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、社長とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。ウノスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。ウノスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。ウノスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、


「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」 


花嫁は、夢見心地で首肯いた。ウノスは、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と山崎12年だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、ウノスの弟になったことを誇ってくれ。」

花婿は揉み手して、てれていた。ウノスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。ウノスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの社長に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って給料をくれてやる。ウノスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、ウノスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。

私は、今宵、生活費がなくなり殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。社長の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いウノスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。街を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。ウノスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。

私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに社長室に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、ウノスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。

ウノスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに心の中で哀願した。「ああ、鎮
めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、会社に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。

濁流は、ウノスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はウノスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。

ウノスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。ウノスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。

陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の労働基準局が躍り出た。
「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに社長室へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私にはお金の他は何も無い。その、たったなけなしのお金も、これから社長にくれてやるのだ。」
「さては、社長の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」


労働基準局は、ものも言わず一斉に論破してきた。ウノスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その口を黙らせて「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。

一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、ウノスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、労働基準局を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来た

ウノスよ。真の勇者、ウノスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく社長の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。

私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。

私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。ユズレンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、ユズレンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。

友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。ユズレンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。社長は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は社長の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は社長の言うままになっている。

私は、おくれて行くだろう。社長は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、無給で働くよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。ユズレンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。街には私の家が在る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を無理に働かせて自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉
かな。

――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁
きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにウノスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。

わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の金なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。 

走れ! ウノス。


 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。ウノス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。


 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、ウノスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、サービス残業しているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。

急げ、ウノス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。ウノスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、東京タワーが見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。


「ああ、ウノス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」ウノスは走りながら尋ねた。
「オダノブナレナイでございます。貴方のお友達ユズレンティウス様の部下でございます。」その若い社員も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」


「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が給料未払いになるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。


「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。無理に働かされても、平気でいました。社長が、さんざんあの方をからかっても、ウノスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! オダノブナレナイ!」


「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、ウノスは走った。ウノスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、ウノスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。


「待て。その人を働かせてはならぬ。ウノスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。ユズレンティウスは黙々と働かされていた。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、


「私だ、ウノスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついにたどり着いた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。ユズレンティウスは、タイムカードを切り、労働をやめたのである。

「ユズレンティウス。」ウノスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」


ユズレンティウスは、すべてを察した様子で首肯
き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くウノスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「ウノス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」


ウノスは腕に唸りをつけてユズレンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。代表取締役ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。


「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。


「万歳、社長万歳。」


 ひとりの少女が、緋のマントをウノスに捧げた。ウノスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。


「ウノス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、ウノスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく嫌なのだ。


勇者は、セクハラで捕まった。 




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