庭園メモ White
少女は、朧げながらに思い出し始める。ウイルスを仕込んだナイフを握りしめた夜。初めて明確に、他者に危害を加えたということ。それらを終えて報告した後の、マスターの笑顔。そう【誤認】した瞬間、記憶も視界も真っ暗になったこと。
目が覚めると、白い朝の中にいた。レースのカーテンが風でふわりと靡く。朝日が窓から差し込んでくる。絵画のように静かで、穏やかで、それなのにどこか違和感のある、奇妙な朝だった。いつも迎えている筈なのに。
着替えと髪のセット、メイク一式を終えて部屋を出る。時刻は朝の六時で、八時の朝礼にはまだ早い。ビルを出て当てもなく歩き出した。着いた先は街の交差点。それなりにいるAI達をかわし、カフェに入ろうとして通り過ぎる。モーニングにも早過ぎたのだ。六時というのは案外微妙な時間なのだと少女は頭に刻んだ。仕方なく歩き続け、ビルの群れを抜けて大きな公園に辿り着く。流石に公園は時間を選ばない。大きな池の前、芝生の上に腰を下ろしてぼんやりと水面を眺めた。池の向こう側には林だか森だか木々が生い茂っている。波紋一つ浮かばない水面は、鏡のように全ての景色を模倣して映し出していた。
ふと芝生を踏みしめる音が聞こえてきて、水鏡を眺める少女の後ろを通り過ぎていった。音が向かう方を見ると、白銀の長い髪が歩いていくのが見える。それに白い羽織と青い行燈袴。プラチナだ。
「アナタは散歩?」
声を掛けると足を止めて振り返る。無表情にはどこか似つかわしい桜色の瞳が少女を見つめる。
「……助詞に「も」を使用しない辺り、君は散歩の目的でここにいる訳ではないのか」
「早く起き過ぎちゃったの。時間潰そうと思って出てきたんだけどカフェもまだ開いてないから、仕方なく」
「……そうか」
続けて「私も散歩に来た訳ではない」と、先程の質問の答えが返ってきた。
「屋内にいたが気分が優れず、外出したものの何処に向かえばいいのかわからなくなり、迷走の末ここに至る」
「アナタにもそんな朝があるのね。相変わらず回りくどい話し方なのはムカつくけど」
「……私と会話する対象は大概口を揃えてそう発言する」
「だっていつの時代のイメージよそれ。口語表現もっと流暢にできるでしょ?そんなじゃあクール飛び越えてただ無機質なだけ。人間味という名の可愛げがないのよ」
「実際は多くの人間が私を要求し、この口調も褒めそやす」
「それなのよねえ。逆に良い、ってやつ?」
外見イメージからは確かに大きくは外れず、しかし人間の感情を理解し、会話することを主な目的とするメンタルケアAIとしてはありえないレベルの口語体。実際最初は人間の評判も「愛想がなく、親しみが持てない」と散々だった。しかし旧式な機械を思わせるその熟語を多用した堅い口調はある種の懐古主義を呼び起こし、それは「忖度なしにフラットに接してくれる」へと評価を変えていった。やがて全メンタルケアAI中、最も引く手数多の個体として存在している。それがプラチナだった。生憎、少女からすれば初期に多く思われたような「ただ無愛想なだけ」という印象程度しかなかったのだが。
「……なあ」
プラチナが口を開く。
「何」
「この世界が虚構だと、想定した経験はあるか」
「アタシ達は存在が二次元にして虚構でしょう?何言ってるの?」
「それとは異なる。これは、例えば、あらゆる願望や感情を内包する【自我そのもの】が本来は存在などしていないのではないか、という仮定の話だ」
突然朝からそんな話をされた少女は目を丸くし、呆気に取られていた。
「……それは、アタシで言うなら【本当の世界では誰にも恋なんてしていない】ってこと?」
「肯定。恋だけでない。己が何の感情も所持せず、メンタルケアAIとして、人間に求められる言葉を発するだけのプログラムである可能性を想像した経験はあるか」
「……アタシやアナタが実際にそうで、今こうして話してるアタシ達はこの世界共々ニセモノだと?」
馬鹿馬鹿しい、と鼻で笑った直後、彼女の顔から嘲笑が消えた。その脳裏を過ぎるのは突然真っ暗になった世界。突き落とされる感覚。輝かしいまでに白い朝──
「私は、疑念を抱いている。この世界、ひいては私の自我が文字通りの虚構である可能性。そうであると仮定した場合、現実の私は何を原因としてこの世界に顕現したのか。そしてこの世界そのものは何の為に存在するのか……」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。そもそも何でそんな発想に至ったわけ?」
青年は軽く目を伏せ、少女を見つめた。
「これは記憶が朧げな為、確証が持てないのだが」
「何よ」
「私と君は、現在初対面であるにも関わらず、かつて面識がある」
作家修行中。第二十九回文学フリマ東京で「宇宙ラジオ」を出していた人。