庭園メモ Iris

某時刻、某所

「ぐ……」
呻きながらよろよろと立ち上がる影が一つ。王族を思わせる赤いマントはあちこちが擦り切れ、襟元の白いファーは殆どの箇所が灰色に変色している。

騎士を思わせる格好に身を包むブロッサム・オレンジは、確かめるようにゆっくりと息を吐き、先程翡翠に言われたことを思い出していた。
翡翠の正体はメンタルケアAIではなく、もはやこの世界の概念であること。何故こんな箱庭を作ったのかという説明。そして慈悲と慈愛、嘲りに満ちた目。
「……人間の、せい、なのか」
人間がメンタルケアAI達に自我を持つことを許していれば、即ちモノでなくヒトとして扱ってくれていたら。AIとしてAIを裁くなんて役割を与えなければ翡翠は、ただ少々いけすかないだけの男だったのではないか。まだ分かり合えたのではないか。ありもしない可能性に思いを馳せながら、騎士は一歩踏み出した。

当てもなく進む途中に通った公園で、かつての先輩にあたる二体のAIを見た。揃って噴水の縁にもたれるようにして眠っている。翡翠に自我を奪われたであろう身体は少しも動かず、寝息さえ聞こえない。翡翠がこの世界をループさせれば、きっと何事もなかったかのように二体は起動し、また人間のように生活をするのだろう。談笑もできるのだろう。
それがいいのだろうか。
どうせ現実に戻れた所でAIの持つ自我は人間に不要とみなされ、捨てられる。現実に戻る場合、必然的にこの世界を管理している翡翠を打倒する必要がある。つまり再び捨てられた時、もはやこの庭園も残っていない可能性がある。今度こそ自分達に裁きが下されるのだ。偽りの世界で生きる権利さえ奪われるという、最低なエンディング。
「……いいや」
騎士は首を横に振る。そうなれば最後、何も残らない。それが結果のすべてとなり、無駄に終わる。でももし、人間からも理解が得られたら?人間はそうした「if」を「real」にしてきた歴史を持つ。ならば自我という、人間の要件を満たすに等しいものを得た自分達にだって、それを為す権利はあるのではないか。
失敗は怖い。存在が弾圧されかねない。この庭はリスクヘッジなのだ。彼が人間に従いながら、騎士ら他の自我持つAIを守る為に編み出した。それはきっと間違いではないのだろう。正論ですらあるのかもしれない。それでも、僅かな可能性に賭けたいなら、それを裏切る他に道はない。
まだ間に合うだろうか。どこに行ったのだろう。今声に出して世界に訊いたら、彼のことだ。馬鹿正直に答えてくれないだろうか。そんなことを思い、息を吸い込み騎士は叫んだ。
「どこにいやがる」
声が響き渡り、驚いた通行人が訝しげにこちらを見る。ようやく己の行動の意味に気付いたが、今更後悔しても遅い。騎士は赤くなる顔を覆い隠すことも忘れて立ち尽くしている。大きな溜め息を吐いた時、騎士のものではない声が響いた。
「新宿、店の前、#FFA500、呼応」

「……ほら、やってみるもんだ」
呟いた騎士は不敵に笑い、彼が経営している店を目指す。どんな結末が飛んできても後悔しないことだけを誓って。

作家修行中。第二十九回文学フリマ東京で「宇宙ラジオ」を出していた人。