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だか僕17.

一年前

『未来は過去を無視した』という文字列を見た時、僕はハッとして、そして酷く落ち込んだ。架空の世界が放つ言葉は、どうしてか現実に一番深く突き刺さる。今の世界はまさにそうだった。歴史に学ばず過ちだけを繰り返す。僕も、友達も、家族も、見知らぬ他の人も、政治家でさえ。だから駅前で演説をしている野党議員のことも、僕は遠くから冷めた目で見ていた。どうせこの人も同じだ。そりゃあ、僕にだって理想はある。でもそれは叶わないのだ。こんな政権が何年も続く世界なんかじゃ、到底無理なのだ。
「愚かだよね」
突然聞こえた声に驚き隣を見ると、赤い長髪の人がすぐ側に立っていた。僕の方は見ておらず、同じ方角──演説をしている野党議員を見つめている。
「どうせ何も変わらないのにさ。今回も与党が圧勝するんだろうね」
「……そう、ですね」
半分くらいは急に話しかけてきた知らない人間に対する適当な相槌だったが、もう半分くらいは純粋な同意だった。過去を無視してすべてを轢き進む者に対して、僕らはあまりに無力だった。昔ならまだ止められたのかもしれない。けれどもう手遅れだ。僕らは終わりに向けて生きるしかない。死ぬために生きるなんて、こんな情けないこともそうそうないが、もう他にできることを探す方が馬鹿らしい。
「率直に言うとだね、君、僕と手を組まない?」
「……組んで、何するんですか」
「ああいう悪あがきをする連中に「そんなことしても無駄だ」って、正論を叩きつけたいんだ。敵いもしないものに抗ったって何も届かないし響かない。そんなことに割くエネルギーはさ、仕事とか趣味や娯楽みたいな、手の届く範囲のものに割くべきだよ。その方が有意義だろう?それを共に言ってもらいたいのさ」
「言ってることには概ね同意しますけど、僕は遠慮……」
「奨学金、全額払ってあげようか」
息が止まる。
「無論僕にも返さなくていい」
その条件に目が眩んだというより、それを知られていることに驚いたのだ。僕には友達がいないし、バイト先の人とは仕事のこと以外話さない。実家は逃げ出した。僕の境遇は誰も知らない筈なのに。
「念の為言うが、これは脅しじゃない。単なる契約交渉さ。でも悪くないだろう?まあ今以上に人に頼りたくないというのなら、無理強いはしないが」
「……どこで、それを……」
「話に乗るなら教えるけど、そうでないなら他者に漏らさないまでに留めておくよ。一応個人情報だしね」
僕は目の前に立つ赤い長髪の人物を見つめた。青い蝶の髪飾りを着けている。よく見るとさらに金のタグ飾りも付いており、そこには明らかに間違った数式が刻まれている。でも僕はそれを知っていた。それが正しいことも、また、正しくないことも。

「……名前を、教えてください。あなたもご自身の個人情報の一つくらい出すべきだ」
「なるほど、それは確かに。僕はね、花乃音言葉はなのねことは。本当にそういう名前なんだ──こんなイデオロギー塗れな人間には、到底似合わない名前だよ」
不敵な笑みに変化はないように見えたけど、確かにその台詞は、この人物の態度とは裏腹の自嘲だった。

今なら、いや、その当時から僕はわかっていた。わかっていて、僕はその泥舟に乗ったのだ。その舟の目指す先が地獄であることも。わかっていなかったのは【誰が】愚かであるか。それは僅かでも希望を賭けて足掻く人々ではなく、そんな人々に希望を捨てさせようとする花乃音言葉ですらない。そんな内容でも花乃音は明確に“正しい”と信じていたから。何よりも愚かだったのは、それを“正しくない”と思いながら何も言わず、話に乗ることを選んだ僕自身だった。主張の善し悪しなんか本当はどうでもよくて、自分を導いてくれる人物だったら誰でもよかったのだろう。お金に目が眩んだのも嘘ではないが、それより何倍も醜い考え方だと思った。
そうして僕は花乃音から「踊鎖おどりぐさり」という名前をもらった。本名は名乗らなくていいから、と。


現在、都内某所にて

「『ほらニーチェもカントもそこ行くあなたも 楽しいことをしよう!』」

何でこんな歌を歌っているんだっけ?
隣には長い黒髪の人物を連れて。

「ヤバいぜこれ俺ちゃんと同じ轍踏んでるぞ」
「ステラさん!戻ってきて!」

ステラと呼ばれた隣の人物を見やるが、その目は酷く冷めている。花乃音と同じだ。希望を捨て、持つ者を蔑む冷たい目。僕はこの人のことを殆ど知らない。というか、突然花乃音に紹介され、さらに次の活動の際に連れていけと言われたのだ。辛うじて知った情報は、自ら志願して「こちら側」に来たということくらい。しかし彼らの反応を見るに、元々は「あちら側」にいたようなのだ。
「……何で、僕らの所に?」
「現実見なきゃいけないと思って。叶えられもしない夢を見るのが馬鹿馬鹿しくなっちゃったんです。春告花の人達も皆そうだから……でも、話したら、歌っていればきっとわかるはず。そうですよね、オトハさん、左月さん!」
そう彼らに話しかけるこの子の目に光はある。花乃音もステラもこの世界に対して諦めているのに、澱み自体はないのだ。まっすぐに、まっすぐに崖へ向かって走っている。その先の青い空や海しか見えていないかのように、終わることだけを見て走っている。
「うんうんわかるよー俺ちゃんも同じようなこと考えたことあるからさあ。でもねえ、それは正しくないのよ」
「何でですか?どうせ何も変わらないなら、いっそ……」

「──『届くはずがないと思ってた 遠くて深い夢だった』」

ステラの発言を歌が遮る。
歌声は長身の細い人物から発せられた。

「……『信じた美しさから目を逸らさないで』」

迷惑極まりない行いを続ける僕らを、通行人の何人かが振り返る。一瞬立ち止まる人も僅かながらいる。冷めた目。好奇の視線。そんな中に混ざる、一抹の希望。最後のものだけは僕らではなく、肩に青い蝶を乗せた人物が放つ歌に向いていた気がした。
隣を見ると、ステラもその人物を見つめている。その目に宿っている光が何を意味しているかはわからなかったが、僕は声をかけた。
「戻りたいなら戻った方がいいよ」
「……でも、きっとまたこっちに戻ることに」
「じゃあ、それまで待ってるから」
何度か僕と向こうを見比べた後、ステラは僕に軽くお辞儀をして、駆けていった。
これでいい。後は今交わしたばかりの約束が、永久に果たされなければ──

「諦めが悪いね、春告花の皆々様は」

慌てて振り返った瞬間、赤い蝶の群れに呑まれた。視界が赤で埋まる。息苦しい。悲鳴が聞こえる。どうやらいつもとは違い、この蝶達は不特定多数に見えているらしい。こんなのがいきなり現れたらそりゃ不気味だろう。悲鳴だって上がるに決まってる。
「花乃音……」
「僕もね、活動の際はペンネームの方を使うんだ。ライト・ムーン・ライト──それが僕の名前だ。わかったかい、踊鎖?それと春告花の五人達」

間髪入れず、ライト・ムーン・ライトが白歌を歌い始めた。

作家修行中。第二十九回文学フリマ東京で「宇宙ラジオ」を出していた人。