20230707/2131


面接に落ちることが得意の無職の人。値段をみてカフェにいくお客さん。病院に通うことをやめた患者。トワの部屋の掃除婦。両親から文句を言われることから逃げる人。これらの点と点をあわせたところから世界を見ると、ここは地獄かなと思うことがある。

面接に受からないことは不幸なのかと考え、第一印象がとりえの営業の人を観察する。すると、アイロンのかけられた服を着て、黒光りする靴を履いている人の口から、論理だけはあっていて、ほかはちぐはぐであるような何かが溢れ出す。(トワが営業職をして心身をこわしたころ、人を騙すのが耐えられないと言っていた。自分でそれほど価値があると感じられないものを、ものすごく価値があるように話し、相手を説得させる仕事だと言っていた。詐欺と同じだと言っていた。)それから、早口で、早足で、早食いをする。それをみて、このような人たちといるとわたしは病気になりそうなので、体はわたしが面接に受からないように取り計らってくれているのではないかと思った。

お金がないことは不幸なのかと考え、お金持ちそうな人を観察する。すると、高そうな服を着て、アクセサリーを光らせている人の口から文句が漏れていたりする。(見る視点が古典風)だんなが、こどもが、と主語を置き換え、自分の不満を解き放つ。それをみて、より多く持つことと、より満足感を得ることはイコールではないのだとわかった。経済的自立は必要だが、ただ増やすことが幸福ではないとわかった。貯蓄のない人はいつもお金の心配をしているが、貯蓄が多い人もベクトルは違えどお金の心配をしていた。

患者であることは不幸なのかと考え、健康情報を漁る。あれがよい、これはいけない、これしかない、こうしなければいけない…健康情報で思考と行動ががんじがらめになっていく。そのとき、パンを食べるとまたグルテンを摂ってしまったと反省し、お菓子を食べると砂糖の摂りすぎを心配し、原材料に記載される添加物をみて自分を傷つけているような気分になる。それを経験して、健康に縛られると、健康じゃなくなるのではないかと思った。体調が悪くなり、ごはんをゆっくり食べているとき、からだが食べるスピードを調整をしてくれているのではないかと思った。食事は栄養よりも、ゆっくりするほどからだに染み込んでいくのではないかと思った。

地獄に見えたのは、社会側からわたしを見た時で、わたし側から社会をみたとき、わたしがいるところは地獄でもなんでもなかった。わたしはわたしの目に社会の目を上書きしずぎているのだと思った。わたしから見えることを、社会からの視点にすり替えて解釈していた。国家という物語の刷り込みが完了した生物。まずは2つの視点をわけて、感じたことがどちら側の視点から来ているのかを考えてみる。すぐわかる。社会側からくるものはわたしの元気をうばう。

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