20240708/2048

言葉が王さまの歴史を語るものになったことが、言葉の誤用、過用につながっているのではないか。そう思って、言葉を優劣をつけるために用いないようにしようと試みる。しかし、慣習のなせる技は圧倒的で、わたしの口からは優劣の構造が無意識に発動されてしまう。歩ける人が、歩くことに注意を向けることが難しいように、脳はできてしまうことに関して自動化する。また、やってしまったと反省する。数えきれないほど失敗しながら、学んでいく。わたしは、学んでいるのかわからなくなりながら。長期的な目でみて振り返ったとき少しは進んだと感じられたらいい。やめなければだいじょうぶだと声をかける。失敗はいい味ではないが、いい味でないほどからだにとっては感じやすい。何度も確かめる機会をくれているのだと声をかける。

また選挙があった。そして、既存の構造を強化しながら投票日を迎えた。言葉は優劣を語るものとして猛威をふるった。わたしはそれをみたことがあった。あのときと同じことをしているようにみえて、時間感覚が歪む。これはわたしがみたものなのか、みているものなのか。言葉は優劣を語るものにもなるが、それにとどまらない、という事実が置き去りにされる。「戦いの構造の中で言葉を使うと、言葉は生きられない。」言葉は世界を分けるものだが、共同をつくるものでもある。母は虫歯になるからいけないといいながらわたしにチョコレートを買ってくれた。大人になるとわかる。母は共同をつくろうとしていた。相手を満たすことが関係性のはじまりにあった。

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