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きたろう「いや昨日3ヶ月に一度薬をもらいに病院に行くのね。あの、その、そんな大きなとこじゃないけど。廊下でみんなずーっと待ってるんだけど、順番をね、中に入ってね、先生のね。隣にね、ものすごい綺麗な人がね、待合室いたのよ、若い人で。その、でね、何の病気なんですか?ってのをね、聞きたいのをどれだけ抑えたか。苦しかったよ」
おおたけさん「なんだそれ」
(2024年7月3日大竹まことゴールデンラジオ)
奇異なものに対して、異常者と判断して排除せず、つっこみによって相手の中に入っていこうとする。喜劇のはじまり。言葉の用い方ひとつで現実をりんごにもみかんにもできる。これは抵抗だった。悲劇の文脈に乗らないということ。他者ではなく、みずからの現実を打ち立てるということ。緊張した空気をやわらげること。とてつもない権力を眼前にしながら生きること。おもしろく生きること。体をあたたかくすること。ほほえみという機能を持っている生き物のあり方。ラジオの向こうにいる人たちは笑っていた。わたしも笑っていた。その笑いはその日はじめての笑いだった。わたしは笑うことを忘れていた。
街に出る。そこに人はいるのか。人はいる。人なのか。人である。これが人なのか。これが人である。これが人ということでよいのか。これが人でよいことになっている。序列化の構造に飲み込まれ、刷り込まれ溢れる、注意書き、クレーム、口コミ。書くことによって人がわからなくなっていく。というよりも、わからなくしている。自明なものを自明でないものにしている。足をなくして漂っている。あるいは海の上に浮かんでいる。そのようにすることでなんとか生き延びていた人たちの後を追って。わたしは誹謗がすきではない。ただそれだけのことを思い出すために。しかし、思い出さなければいけなかった。それはこの体を傷つけることなのだ。傷つけつづけることなのだ。何度もとんでくる矢を抜こうとしたことがない。刺さっているときには抜くことができないから。ならば。刺さないようにするにはどうすればいいか。
怒りについて、さまざまに語られる。怒りはよいものである、もっと怒ろうという。一方、怒りはよくないものである、抑える術を身につけようという。同時にふたつのことを言われている。AとBを同時に知覚せよ。 中国医学の陰陽理論では、陰もしくは陽、どちらかに極まる時反転が生じるといわれる。激しさのあとには虚しさが生じ、虚しさのなかから激しさが生まれる。夜と朝。感じやすいときは疲れているときなのだ。朝を待つ時間帯。何事もなかったかのように。しかし、見えない傷でできた社会。あてがれた1つの現実によって、見えないものとされている、見えてはいけない傷によって重なりあう社会。書くことによってわからなくしていく。1つじゃないものにしていく。わたしは、あった、と書く。見えた、と書く。
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