20240712/1115

身体地図の本を読んでいた。メディアでなかなか普段見ないような言葉のやりとりを目にして、これは何が起こっているのだろうと問わずにはいられない。多くの人が同じようにこの事態に問いを立て、言語化していた。診断しているものもあった。わからないものには興味が惹かれる。落ち着かなさが発生するから。そこでの解決は、あくまでも当人の解決である。言語化、つまり名付けることは、情報を分類し、コンパクトにすることである。ファイルに見出しをつけることに似ている。中身の雑多さはさておき、見出しをつける。なにかまとまった感じがする。収めた感じがする。

その言葉のやりとりをみていて感じたのは、道理にかなった言葉を発している人の声が、対象者にほとんど届いていないことだった。届いていないどころか、返答とすら感じられていないことだった。空いた口が塞がらないという状況になる一方で、今向こうの現実で起こっていることに対して、こちらの現実との落差を目の当たりにする。外は雨が降っていたが、梅雨時期らしく緑がもえている。坂を下るほど多くなる人。湿気を吸い込んだドーナツ。図書館には読まれるのを待つ本。静かなものの声が無数にあり、それらがかき消されない現実。オンラインに接続しないところにある日常。騒がしくないが、騒がしい。騒がしいが、騒がしくない。

相手に対して言葉を編めど編めども、その言葉はどこにも着地せず空中を漂う。そもそも送られた言葉に対して、取り入れ、受け止め、解釈し、返答するというこれまで見てきた前提が機能しなくなっている。言葉には宛先がある。しかし、宛先を書いても、届かない。これは手紙の送り手にとってどんなに衝撃的な事態だろう。言葉を編むという行為に対する侮辱すら感じられる。無論、当人にはその意思はないだろう。それが当人にとってのコミュニケーションの作法であり、技法であるから。

この現象と、ダイエットする人のボディ・イメージの崩れの議論がなんとなく重なるように感じた。ダイエットにおいて、減量に成功しても太っていると感じる人がいる。ボディ・イメージが確固なものとして確立すると、ボディ・スキーマ(体型)が変わっても、イメージが継続され更新されない。サンドラとマサラによれば、ボディ・イメージは態度、想定、期待、そしてときには妄想というおまけもつく、思い込みの混合物と定義される。これらは、家族、同僚、文化などによって構成された物語であり、実際の身体とは異なるが、それを超えたものとして作用する。人は複数の現実を生きる。

自分に対してどのようなボディ・イメージを持っているか。それがその人の視点を決める。自分に対してポジティブなイメージを持つ人は、他者からいくら批判されようと、自分のイメージは維持されるので、相手に非があると解釈する。その視点に立つと、現実はそのように見える。一方、自分に対してネガティブなイメージを持つ人は、他者からいくら肯定されようと、自分のイメージが維持されるので、世辞、間違いあるいは勘違いだと解釈する。その視点に立つと、現実はそのように見える。今回、わたしが見た現象は、前者に近いのではないか。

ボディイメージの議論では一般的にネガティブなものの影響について語れることが多い。一方、今回のわたしの目にした現象は、過度にポジティブなボディイメージにも問題があるかもしれないということだ。失敗が痛みとしてその人の輪郭をかたどり直していくものだとすれば、成功だけ積み重ねてきた人はその機会が得られず、自分の輪郭線がわかりにくくなっていると考えることもできるのではないか。肥大したボディ・イメージは万能感にすり替わり、他者の言葉を取るに足らないものと解釈するのではないか。このように考えていくと、議論という技法の限界が明るみになる。議論以前に相手の視点と自分の視点のずれを見る必要性がみえてくる。

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