20240709/2053

ぺてん師が持っていたのは定型文とスーツだった。一方で、専門家が持っていたのも定型文とスーツだった。この社会は、定型文とスーツの魔法にかけられている。彼らは言葉と容姿(服装)で凡人と距離をとり、凡人を眺めている。両手を後ろにまわして、自分は手を汚さないというそぶりを添えて。

本人がしたについて回答を求められたぺてん師は、スーツを着て、したともしていないともいわず薄ら笑いを浮かべた。ぺてん師は熟知していた。人はスーツに対して正当さの印象を抱いていることを。ぺてん師を何か正当らしいものにすることを。それはスーパーに並ぶお菓子のパッケージとどこか似ていた。いちご味と書かれたお菓子にいちごは入っていなかった。

国の司法にたいして訴訟を起こした弁護士らは、スーツを着て、耳に入る人と入らない人のいる言葉遣いで話した。専門用語という壁は、専門家を守る壁として存在していた。弁護士たちは熟知している。専門用語こそが、弁護士を弁護士たらしめることを。

専門用語は学部の数だけあり、隣の芝にいくと迷子になるような世界が広がっている。学部ことに用語辞典が編まれ、その分厚さは、専門家がもつ壁の厚みをもあらわしていた。立ち入り禁止。

この遠さについて怒りがあった。わたしのわからないことをわたしのわからない言葉で話し、わたしを疎外している、という怒りがあった。それはわたしの稚拙さを反省するよりも、先にあった。わたしは仲間はずれになることがこわかったのかもしれない。置き去りにされることがこわかったのかもしれない。彼らが本人のいないところで、本人の話をしている、ということに耐えがたさがあった。

ある若い政治家はこのことをよく知っていた。だから捨てることにした。専門職的ふるまいを捨てることにした。あえて。その政治家にとって、票を集めることは、当人の品質をみてもらうことではなく、当人のまとうパッケージをみせることだった。時代は、人を中身ではなく服装と容姿で評価するルッキズムの最盛期でもあった。容姿に敏感な人たちは、中身に興味を示す時間を惜しいと思っていた。中身に触れるまでにかかる複雑な手続き、その時間がもったいないと思っていた。中身をみなくても容姿に全部書いてあると思っていた。それは彼らの経験に基づいている。彼らは容姿のよしあしが瞬時に判断され、人の評価基準となるような社会に生きていた。

いちご味と書かれたお菓子にいちごは入っていなかったが、彼らにとってそれは問題ではなかった。そもそもパッケージの裏側に書かれた原材料の記載をみていなかった。その代わり、パッケージの表側に書かれたイメージをみて♡をタップした。友人に共有した。わたしはかっこいいものを知っていることを、知らせるために。それはわたしをかっこよくすることでもあった。そして、彼らにとって重要なのはこのことだった。♡は自分を飾るものでもあった。

品質を見ずにパッケージをみる。それはこのせわしい時代においてある種自然な行動であるように思う。広告は、明言を避けながら、耳障りよい言葉を日夜発明しつづける。それに全身が浸された社会。食べ物の選び方を学ぶ機会があれば、それは政治家の選び方を学ぶ機会になりうるのではないか。じつは彼らこそいちばんの被害者かもしれない。若者は今やマイノリティーだが、若者自身はそれを自覚しにくい。それはマイノリティーとして差別の圧倒的地層を持つ、女、病者、高齢者、障害者、さまざまな理由で部外者とされた者と最も異なる部分である。

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