20240706

日本には制度のとしての民主主義はあるが、各人の自覚としてのそれは希薄だといわれてきた。長いものにまかれることが生存の技術であるような圏だからだ。「まったく勝ち目のない強い相手には、抵抗するより諦めて従ったほうがよい」

強いものは少数派で、弱いものは多数派だ。強いものの仕事は、弱いものが適当に死なない程度に弱いままでいるようにすること。弱いものが強くなっては困るのだ。弱いものが強くなる戦略として最も採用されている方法は、集団化。強いものにとって、人が集まるときは、今まで聞こえていた自分の声をかき消されるときを意味する。あるはずのわたしの声の上に、無数の声たちが重なり、声をなくす。今まで聞こえていたものが、聞こえなくなる。強いものに、別の現実がみえはじめる。無数の現実がみえはじめる。しかし、現実は1つであり、無数に見えてはいけないことになっている。現実が1つであるという物語は、強いものが強いものであることを支えている。

ここでの声は量volumeの話である。強いものの声が、文字通りvolumeによるものだったことが可視化される。volumeの声とは、相手よりも多くの位置を占めるということだ。感覚器官に入ってくる情報量がほかより多いということだ。volumeの声の生息地は聴覚と視覚だ。そのため、volumeの声は、聴覚情報と視覚情報を占領しようとする。音のなるところ、目で見えるところには、強いものが忍び込みやすい。というより、聴覚と視覚に関する様々な装置は、強いものを支えるためにこそ発明されたといってよいのではないか。そもそも、強いものの宣伝/広告装置としてはじまり、現在でもそのように利用されている。一見そのようでない素振りをしながら。

テレビやラジオ、インターネットに触れるということは、volumeの声を主体的に聴きにいくということでもある。そんなわけはない、わたしはニュースは見ず、ドラマを見ているだけだ、としても。ドラマから聞こえてくるだろう。この服が正解だ、この髪型が正解だ、このふるまいが正解だ…。人は、日夜volumeの声を聴き、右往左往する。その声を聞いていると、自分の声がだんだん聞こえなくなっていく。やがて、その声が正しいものであるかのように感じられてくる。自分の声が聞こえないので、その声がわたしの声だと錯覚してしまう。トレンドはこのように成り立つ。

ヨーロッパやアメリカ圏にいくと、トレンドという現象が目立たない。彼らはどんなにvolumeの声に接していても、自分の声をかき消さない術を持っているように見える。トレンドという現象は、一種の長いものである。その現象をみていると、人々が普段から強いものにまかれる練習をしているように見える。

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