20240707

人の考えは、その時にいる時間・空間に占める声たちのvolumeによって決められる。しかし、当人は自分の頭で考えていると思っている。自分で考えた財産だと思っている。個人の思想というものは、多くの場合その人がどの位置を占めているか、ということしか表しえない。それは環境によって規定されるものであり、環境は各人を超えたところにある。各人を超えたところにあるものを、自分のものであると思い込み、わたしの思想として所有すると、何が起こるか。思想と思想がぶつかりあう。お花見さながらの場所とりがはじまる。

夜起きる人にとってのvolumeの声
こどもにとってのvolumeの声
非常勤人にとってのvolumeの声
病人にとってのvolumeの声

場所によって、どの声のvolumeが大きくなるかは変わる。しかし、それぞれの場所では、一番大きい声ばかりが聞こえるので、その声が正解であるように感じられる。わたしの考えとして内面化されていく。思想は、当人に正解だと強く感じられるほど、強くぶつかり合う。言葉が武器と化していく。

現状が多様化にみえる人もいれば、奴隷化にみえる人もいる。暑いと感じる人もいれば、寒いと感じる人もいる。どの見え方も等しく現実なのだろう。現実が複数あることをゆるすならば。現実が1つであるという思い込みが、人を過剰に緊張させる。無数の現実に耐えられなくしていく。その錯覚を信じることが正常で、信じないことが異常であるというような言説が、人々をさらに錯覚のほうに縛りつける。

「アオからはそのようにみえるのね。アオの見方、おもしろい」
「どうして、おもしろいの?」
「だって、わたしからすると、全然そんなふうには見えなくて。新鮮だったから。」
「シューにはどうみえてるの?」
「興味ある?」
「興味ある!」

*

ひとりになりvolumeの声たちから離れる
生き埋めになったわたしの声の在処
どこにあるのかわからない
でも、あることだけは知っている
そのかすかな実感がわたしを動かす
わたしが遊んだもの
わたしが抱かれたもの
わたしが撫でたもの
volumeの声ではまかないきれない安心感
戻る場所があれば、出ていくことができる
この声は道に迷ったときの北極星だから

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