20240708

わたしが蛍光灯が眩しい部屋にいると頭が痛くなる、と言うと、トワは暗い部屋にいると気分が下がるという。わたしの感覚は理解されない。わたしは孤独を感じて落ち込むが(ただトワという一人に理解されなかっただけである)、トワは落ち込むわたしを何も気にする様子がない。

わたしは一人になるしかないと思う。自分の味方は自分しかいないのだと腹を括って、自分を味方のいる場所にいさせてあげるしかないと思う。わたしにとって孤独になるということは、そういう思考になるということでもある。人に理解されないとき、かえってわたしの思考は強化される。理解されなければされないほど、蛍光灯が眩しくなっていくように錯覚する。ドラッグストアが拷問のように感じられる。

しかし、同時に、人が理解を示さないことに救われている。人はそれが問題と思っていないことを知り、問題としなくてもよいことを知る。トワはわたしにとっての問題を、問題としない。問題でも問題じゃなくてもどちらでもいい、気にしない、いう視点があるのだと気づく。蛍光灯は相変わらず眩しいが、ドラッグストアでトワと楽しく洗剤を探していたりする。その時、ドラッグストアは拷問ではなくなっている。

気にするか、気にしないか。わたしは気にしたがりだと思う。トワも気にしていることはあるが、わたしよりその量が少ない。トワはトマトにはうるさい。きんしょうで野菜を選ぶときの目は真剣そのものである。つまり、売り場に売っているものすべて見て買うものを選んでいる。「おねえちゃん、これでいいと思う?」と聞く。そう言われると、ちゃんと見なければという気になって、わたしも真剣になっている。トワは野菜が好きである。とくに夏野菜。その気持ちがトワを真剣にする。野菜選びを大問題にする。

わたしはあらゆるものを問題にしているのに対して、トワは好きなものだけを問題にしている。新鮮な野菜を安価に買ってよろこぶトワをみながら、問題の使い方がうまいと思った

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