20240709/1859

小説を読んでいたら3行ごとに眠くなる。床の上で座していたわたしは、ベッドの上に吸い込まれる。すると、今度は1行ごとに眠くなり、もうどこを読んでいるかわからない。そもそも、読んでいるのかわからない。読んでいるというより文字に触れているというほうが近い。わたしは目を閉じた。わたしは小説を読もうとしていたが、からだは読まなくていいという。

あの日の教科書はよく眠れた。教科書の文体は、体が反応しない文体でもある。学問の領域で読めるということには、体が反応しない文体に、脳だけを馴染ませてさせていくもののように感じられる。誰にも寄り添わないかわりに、一人の静かな時間が与えられる。それが贅沢なものだとわかったのは大学生になってからだった。幼いわたしにとって教科書の文体は耐え難いものがあった。絵本が好きで、半分絵で物語を読んでいたわたしにとって、まだ体と脳の切り替えができていなかったのだと思う。

4月の教科書配布のとき、10歳のわたしは困惑した。
「全然絵がない!(ので困る)」

本が売れないという現象とわたしの困惑は文脈が異なるが、どこかつながっている。この困惑と似た現象が広がっていて、かつ年齢が上がっていきているのではないか。それは経済格差や学歴格差として説明できるかもしれないし、ITテクノロジーによる映像メディアの発達やわかりやすいことが善なのだとする思想の影響かもしれない。いずれにせよ、本は必要なものであると考える人は減っている。

写真や映像にしかできないことがあるように、本にしかできないことがある。一方で、写真や映像があまり見るための練習を必要としないのに対して、本を読むためにある種の練習を必要とする。練習を必要としない点において、前者を知識の解放と共有だという向きがあるが、本の機能を代替するものではない。切り抜きと呼ばれる手法が蔓延している。本には章立てがあり、1つのテーマについて何ページもさいて説明する。それはなぜか。扱っている事柄の複雑に対して敬意があるからではないか。自己啓発本と呼ばれるものが書店の一角を占めるようになってから、この前提が崩れてきている感じがある。テーマについての説明が経験の描写にさかれ、内容が深まっていかない。引用の切り貼りだけで構成され、本というよりスクラップになっている。そして、それが手軽に読めるものとして売れている。深めることは不要なのだといわんばかりに。今となって、本は人の複雑さをたたえるものだったことが浮き彫りになる。

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