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#わたしとマリノス(と、生活) 2023夏

 少し前までは、「マリノスが僕の日常になってからどれくらい経っただろう?」というようなことを頻繁に、それもなぜか必死になりながら思い返そうとしていた気がする。それは、僕がマリノスのことをずっと追いかけ続けていることの説明をつけるために必要な確認作業だったのだろうと思っている。常にその理由を確固たるものにしておかないと、サポーターの”あるべき姿”ではない気がして、すごく怖かったのだ。

 でも、いま現在の僕(ユウ)とマリノスのあいだには、既に説明不要で密接な結束が生まれている。いまの僕はごく自然に――使い慣れた冷蔵庫の所定の位置から麦茶を取り出すように――日産スタジアムに足を運ぶし、試合も当然観て(それは一人だったり二人だったり、たまにたくさんだったりする)、そこで出来た仲間とお酒を飲みながら喋り、たまにふざけながら、そうして次の日には仕事に戻っていく。

 ただ、夜通しマリノスのことを考えてずっと眠れないような日は、もうほとんど訪れなくなった。平日の夜には試合のことをたまに思い返したりすることもあるけれど、それくらいのものだ。躍起になってDAZNを繰り返し見ていた頃が懐かしく感じる。

 さて、唐突だが僕は言葉が好きだ。自分が何かを見て、そのときに思ったことや体感したことを別の形に変換するというその形態自体が好きなのだ。マリノスを追いかける理由やマリノスの好きなところ、嫌いなところをあらためて言葉にすることは今でも時々やっているし、それは3年半(!)続けているポッドキャストの場になることが多い。

 サッカーと言葉とサポーターの三角関係についての僕の考察は、それこそポッドキャストの各回に散りばめてあるのでそれを聴いてもらいたいが、そこで僕はよく「(マリノスと自分の)距離感」という言葉を使う。マリノスから受け取ったものを自分の体に"通した"ときに、なにが出てくるのか。それを基本的にはそのままの距離感でお届けするのが、僕のやり方になっている。サッカーというスポーツの面白さ――つまりその単純さ、あっけなさ、残酷さ、切実さのこと――やマリノスというクラブには今でも魅せられ続けているし、そこへの純粋な探求心がなくなったわけでは決してないけれど、もう「マリノスを追いかけるのが僕のライフワークなんだ!」と声高に叫ぶつもりはないということだ。逆に、「あえて言葉にしない」という選択をするつもりもない。禁欲的な行為はとても難しい。

 もう一度記す。僕とマリノスの関係性は説明不要で、密接なものだ。そしてその距離感はこれからも変わりながら、ずっとずっと、もしかしたら死ぬまでその関係は続く。これが僕の出した結論だ。

 他にもやりたいことがたくさんある。生活に忙殺されてままならないことだってある。読みたくてたまらなかったはずの本が読めない。友達と旅行に行けない。時間はいくらあっても足りず、思い通りに物事が進まないことでつい自罰的になってしまうこともある。そんな時に隣にいて、つかず、離れず。常に同じ距離感でいるわけではなくても、当たり前にそこにあるもの。そういうものが自分の人生に存在することの幸せを噛み締めて、今日も生きている。

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