推し
※2022/9/24起稿分を再掲
「推し」という言葉を自分が使わない理由が、「好き」との対比の中ですこし解明できた気がするので書いておく。
前提として、なにかの対象を"ポジティブに"愛でる気持ちであることは「好き」も「推し」もそう変わらないんだからどっちでもいいじゃん、別に誰かを傷つけるわけじゃないんだし、みたいな世界の見方に対しては、基本的には己の理性で抗っていきたいと思っている。そういうノリ、そういう世界への解像度で生きていないのであしからず。
「推し」はほかの流行り言葉の例に漏れず浸透しすぎた。その感情、概念自体が人間の根源的なところに近いが故に。あたらしく言葉が先に立って、そのあとに人間と社会がその論理を理解し内面化していくプロセスは面白がれるところもあるけれど、それにしたって(自分には)馴染んでいかないなあ、というのが僕にとっての「推し」。
マリノスは私の推し。
うーん、押しつけがましさ。軽さ。自分がマリノスのことを好きで、その情動は自分の中に純然として、他のいかなるものにも邪魔されることなく存在すると言い切りたい、いや言い切ることでむしろその想いを溢れ出させたい、溢れてしまっている、もうひれ伏すしかない、そういう無抵抗さを表明したい。人に推したいから好きなんじゃない。好きだから好き。
私はマリノスが好き。