青春の性質

 青春という言葉は、その時期をとうに過ぎてしまった人たちのために存在しているのかもしれない。そんなことを、Huluで配信中のドラマ「DASADA」(主演:日向坂46、原作:秋元康)を観て思った。

 我々はみな学生生活を通して、チーム、グループ、サークル、そういったものに属することを多かれ少なかれ経験してきた。それがあくまでも社会のシステムの上で効率性を鑑みて生み出されたものと気づかず、まるでそれこそがあるべき姿なのだと信じ込んだまま。

 しかしある程度の年齢になってその世界から離れてしまうと、人はそれがいかに特殊な状況だったかに気付く。言葉には出さないまでも、今ではみんなが思っている。学生生活は特別で、期間限定なのだと。同じ場所で、大勢の人と、思い出や時間を「本当の意味で」共有することなんて、ただの幻想だったのだと。大抵の人はそうやって考えることで、それぞれの個人が先に立つ「大人の世界」に自分自身の重心をスライドさせる。「大人の世界」に居を構えることが人の気を楽にするのは、そこに身を置いた瞬間がすなわちその人の永住の地の決定の瞬間でもあるからだ。大人は死ぬまで大人。私たちはずっと一人。そんでもって大人の世界が本当で、子どもたちの(学生の)世界はイレギュラー。

 それでも私たちは、もう戻ってこない青春の形を若者――つまりはかつての自分――に重ねる。ある時は実際に存在する若者に、またある時は作り物の中の若者に。「DASADA」の登場人物も、そういう類の大人の視線を背負っていた。もちろん、そんなことには完全に無自覚のまま。

 大抵の人にとって、青春の思い出は苦い。集団を構成する個人には、いつの時代だっていろんなジレンマがつきまとう。いや、もはやその思い出が苦くすらない人も多いかもしれない。苦くも甘くもないまま淡々と進んでいった青春が大半で、自分の記憶としてちゃんと残るのは、集団に属していたという無味乾燥の事実だけ。そういう青春らしくない青春をいくらか経験して、人は少しずつ大人らしきものに近づいていく。

 それでも、彼女たちに至っては、誰一人として取り残されなかった。お調子者の佐田ゆりあも、「本物」以外に興味が無い篠原沙織も、見栄っ張りの高頭せれなも、不器用な小笠原真琴も、他のたくさんの、ほんの脇役を担う人たちでさえも。そこには作品全体に通底する、頑ななまでの肯定の精神があった。その世界に存在するすべての人間を丁寧に一つに巻き込んで、物語はクライマックスへと吸い寄せられていく。

 しかし私たちは、彼女たちがいずれ離れ離れになることを知っていた。だからこそ、彼女たちの懸命で真っ直ぐな姿は、輝けば輝くほどに、儚い。

「解散」の瞬間を誰もが予感する中、「DASADA」は遂に活動の無期限停止を発表する。いつかまた全員で集まって、青春の時間を共有することを信じて。


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