見出し画像

要るか要らぬか

先出しで言うと、挨拶無し容認派だ。若しかしたら、怪しからん部類に入るだろう。しかし、挨拶をしない選択をしていることで、勿論、礼をリスペクトを欠く為に行うこともあるが、必ずしも常にそういう臨戦態勢の中で、挨拶をしないという訳でもない。そもそも、立場がどう、挨拶の有無で、それらを今一度再考させる機会も必要も無かろうというスタンスだ。
挨拶が無いが為に評価をするのも、礼を欠かれていると思うも受け手の問題であって、そもそも、挨拶が有りさえすれば、良い人間だとか良い奴に違いないというのは、行き過ぎだし、無い時に、無礼極まりないという断定も甚だ可笑しい。
部活の先輩後輩に始まり、近所の付き合いとかで、挨拶が無いとかというのは、一々小うるさい。寧ろ、大事だと慮っているならば、自ら目上とか目下とか関係無く知り合いには分け隔てなく先んじて挨拶をすればいいだけだ。
ここで言うしないというのは、挨拶の交換が無い、詰まり、一方の礼に対して、返さない無視するシカトすることを、意味するのではなく、挨拶に誰からするというルールも無いし、誰かはそのまた誰かに必ず挨拶を返すべしということも無いし、そういう自分勝手な価値基準を他者への判断材料に置換していることが、そもそも問題にもならない問題なのに、何を悩ましくとらえているのだろうか、疑問だなあと思うことだ。
確かに、後輩や目下というか、慕われているだろうなという者から、パタリと無くなれば、異変は感じるものだ。挨拶は不要と説きながらも、身勝手さは承知、ただそうなった時には、される自分とする自分、私はしない自分を信条としているが、しないからこそ、されない人も居るわけで、する/しない、される/されない、に一々拘る姿勢を手放すことに思い至ることが大事だなと常に考えている。
もっと大事だなというか裏ありだな、いや、真理だなというところに、されなくなるだけの理由がある、大袈裟でも甲斐性が無くなったということだろうか。しなくなった本人には本人なりの理由あるに違いないと考えることも大事で、自分はその様な憂うべき輩に落ちぶれたのだと回顧の材料にして、より深く内省する必要から機会に移さなければならないと思う。ひょっとすると、そう深い何かを計る前に、先ず実は類似ポジションの人間の可能性もあるし、挨拶しろよ、なんて馬鹿な命令とか指示、或いは礼節履行のプレッシャーは、要らない。リスペクトなんてされるに値しない存在でしかないことを自覚すべきだ。
積極的には挨拶をしない、消極的に低頻度で挨拶をする、その立場でこれからもやっていきたい。ただ、これから変化しないとも限らない。小さな主義主張も、抑圧いや弾圧を受けるかもしれない。したきゃすりゃええで、したなかったらせんでよかで、 そして、他人の動向を逐一取り沙汰して騒いでは、正当化した矛盾ないし自己都合的な理論を振りかざすことだけはやめて、挨拶の有無とか、そもそも意味を見出すことに意味があるのかについても、根源的に探すとか、諦め捨て放ることで、フラットにいることがずっとずっと、掘り下げるべきことだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?