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あなた自身とあなたのこと

アルバイトまみれの生活の中、日々の彩りはホンサンス映画だけという毎日が3ヶ月ほど続き、気づけばホンサンスは自分の映画の指針となっていて、ひどい時はホンサンス以外の映画を見ても、ホンサンスじゃないなあとしか思わないほど、その気持ちの注がれ方は異常だったが、最近はそれも少し落ち着き、季節は梅雨である。

こうして少し冷静になった今、改めてホンサンスがどう好きなのかを自分なりにみんなに伝えたいと思った。

そこで先日ちょうどストレンジャーという菊川にある映画館で『あなた自身とあなたのこと』を見てきたので、この映画についてちょっと話したいと思う。思ったんだけど、今現在配信にはない映画で、改めてセリフや場面を引いたりができないため、時に別のホンサンス映画の似てるシーンで代用して説明してみようと思うけど、我慢してほしい。

『あなた自身とあなたのこと』は、自分がホンサンスの映画を好きになる明確なきっかけとなった映画で、彼の映画の中でも指折り好きな映画だ。印象に残ってるシーンもいくつかあって、ドキドキしながら菊川まで行ってきた。

この映画は、ヒロインの女性ミンジョンが、恋人の男との口論の末に突然姿をくらまして、やっと出会えたかと思えば、自分はミンジョンじゃない、双子の姉妹だ。と会う人会う人に言い張るという、めちゃくちゃ突飛な設定で始まる。この設定だけで自分なんかは面白いなあと思うのだが、このアイデア一つを、80分の尺の映画にまでしてしまうのがとてもかっこいいなと思う。ホンサンスはアイデアを諦めないというか、ホンサンスはアイデアが映画の形をしている。
ホンサンスの映画を見ていていつも思うのは、この人たちはみんな夢を見ているんだなあということ、そしてこの人たちの見ている夢を自分は映画として見ているんだということだ。
これはホンサンスの映画に夢落ちの展開が多いというのもあるが、それ以上に、こんな変な設定を、この映画の中の男たちは全員なんだかんだ受け入れ、その中で精一杯生きてる様が、まるで夢の中のようだと感じる。
『よく知りもしないくせに』にもこの映画のミンジョンのような変わった女性が出てくる。同じく夏の映画だが、開始2分、主人公の映画監督の男が、映画祭の実行委員の男女と酒を飲む約束をした直後、初対面のその女性に怒鳴られる。

男「ご苦労さん。今度飲もう」
実行委員・男「ほんとですか?」 
実行委員・女「きっとですよ」
男「もちろん」
実行委員・男「では、期待してます」 
男「わかった」
実行委員・男「お疲れ様です」
男「お疲れさん」
実行委員の男女、去る
ヒロインの女、スタスタ歩きながら
女「守れない約束はしないで」
男「え?」
女「あの子たち本気にしますよ。口だけなんでしょう?」
男「まさか。約束は必ず守ります」
女「フワッハッハッ!そんな大げさな笑」

よく知りもしないくせに

始まって間もないのもあってまじで度肝抜かれるシーンだが、こういうのを見ても、なんか夢みたいだなあと感じる。まさに夢中だ。

さて。タイトルに象徴されるようなテーマの、やや抽象的な会話が続く上に、同じやり取りが何度も繰り返されるのだが、見ていて全く飽きないのが凄い。

男「会ったことありますよね?」
女「誰ですか?」
男「またまた笑」
女「本当に誰ですか?」
男「ふざけてるんですか?」
女「いいえ」
男「きのう会いましたよね?」
女「私はあなたを知りません」
男「はっはっはっ」

うろ覚えどころか何となくで書いてるので実際とは違うが、ざっとこんな具合の会話が80分続く。
ほんとに最後の最後まで続く。しかしただ繰り返されるだけなのに単に空虚な言葉遊びに感じないのは、それはセリフよりも前に設定があるからで、その証拠にこんな抽象的な会話の中に突然、会社の名前や出身地、母校の名前がスッと固有名詞として出てきたりして、その度にゾクっとする。
書くほどのことじゃないかもしれないけど、例えば家を聞かれたとして、すぐそこです、と答えるときに、ホンサンスの映画の登場人物は家のある方を必ず指でさす。ホンサンスの映画ではキャラクターの設定とか住んでる場所とかが、ドラマにではなくキャラクターの存在そのものに貢献していてそこが胸を打つ。例えば『正しい日間違えた日』の屋上でのシーン

男「見晴らしがいい。ヒジョンさんの家も見えますか?」
女「山の中腹ですけど私には見えます」
男「(背伸びして見る)」
女「あの大きな仏像。その下にある黒い瓦屋根の大きな家」
男「仏像は見えるけど家はよくわからないな」

正しい日間違えた日

この人が存在するんだということに感動するし、それを信じて撮っていると感じる。

それから、ホンサンス映画の繰り返される会話が単調に感じない理由のもう一つに、会話以上に会話を通して交わされる感情のほうに注意が向くからというのもあると思う。感情さえ途切れなければ、何度同じセリフが繰り返されても構わないとさえ思う。
『アバンチュールはパリで』にまさにこの映画と似たようなシーンがある。

横断歩道を渡る男。
男に気付き一瞬立ち止まる女、笑顔で手を少し上にあげる。
無視する男。怒って立ち去る女。
何事かと思い男は女を追いかける。
それに気づくも、さっさと歩いていく女。
男、追いついて女の腕をつかむ

男「すみません、ちょっと失礼します」
女「ええ」
男「韓国のかた?僕を知ってますか?」
女「笑わせる」
男「知ってるんですか?」

去っていく女。再び追いかけて腕をつかむ男。

男「さっきなんて言った?どういうことだ」
女「あなた本当に笑わせる」
男「何?」
女「覚えてない?わたしよ?わたし」
 「ほんとに覚えてない?」
男「知らないさ、お前は誰だ?」

アバンチュールはパリで

結局女が男の元恋人だったという設定なのだが、長いくだりでも感情は途切れない。ホンサンスの映画のツーショットは感情がビームになって頭上を飛び交ってるように見える。大切なのは感情があるということで、それが陳腐とか、安っぽいとかはあまり関係ない。

話が逸れてきている気がするが、ホンサンスの映画はすべての映画が部分部分で繋がっているため、一つのシーンを思い出すとそれと似たシーンがいくつも出てきて最高だと思う。

最後に、この映画を今回見たいと思った決定的なシーンが2つあって、その一つがヒロインのミンジョンが水路の中を裸足で歩くシーンだ。水から上がったミンジョンは裸足のまま遊歩道の舗装された道をスタスタと歩いていく。その濡れた素足がつける地面の足跡を捉えるショットに、2年前の俺は心底感動したと記憶していたのだけど、今回見たらそんなシーンはなく、いや、あったのだけど、別に足跡を撮ってはいなかった。そこでようやく思い出したんだけど、あるはずの足跡を撮ろうとしていないことに、当時の俺は感動していたんだった。足跡を提示するのではなくて、あくまで発見を促すような形で見せられたように感じて、俺は感動したんだった。

それからやっぱりラストのシーンがほんとうに好きで、私はミンジョンじゃありません。と言い張るミンジョンをついに受け入れ、それでも一緒にいたいと告白する主人公の男と、ミンジョンとの最後のシーン。変な設定から始まった映画だけど、1人の人間が受け入れられるまでの話として綺麗にまとまってるし、ずっと会いたかった人に会えたという喜びもある。俺は、会いたい人に全然会えなくて、でも最後やっぱり会えるって映画に目がない。

目が覚めたら隣にミンジョンがいなくて、また夢かと思って落ち込んでいるとキッチンからタッパーにスイカを詰めたミンジョンがやってくるという最高の終わり方。ホンサンスの映画はモノクロのものが多いから、この映画も草の葉とかと混ざってモノクロだったかしらと時々ごちゃごちゃになるのだが、ラストシーンのスイカの赤さはこの映画に色があったことを思い出させてくれる。

読んでくれてありがとうございました。
今日は涼しい夜ですね。

20240629

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