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世界へ開かれた窓

少し前になるけれど、同僚が、子供が本名で登録した鍵もつけていないTwitterアカウントを使っている、とぼやいていたことがある。
自分や友人の顔写真を加工もせずバンバン投稿し、場所特定出来るようなことも書いており、困ったものだ、、、と。
「子供といっても、高校生男子じゃないの?」と言ったら

TwitterとLINEグループの違いがわからない

という衝撃回答。
「それ、注意しないの?」と尋ねると、親が見ていないと思って、学校をさぼって遊んでいる様子なども投稿されており「いきなり言うとアカウント削除しそうだから、しばらく泳がせてみる」とのこと・・・うん、賢明な判断と思います。

ほどなくして、鍵付きアカウントになって、親も投稿を見られなくなったそうです。
めでたしめでたし?

生まれた時から並列で置いてあると、やはり、わかりにくいんだろうか?
私は年々着々と段階を踏んで、おかげさまで文明の利器を使ってきたので、それを肌身で受け止めて知っている。

ここ、インターネットは、良くも悪くも開かれている。

日本語で書いてあっても翻訳ツールを使えばすぐ、日本語がわからない人でも読めるし、私だって翻訳ツールを使えばアラビア語のサイトが読める。
そんな時代だ。
世界はますますマゼコゼになり、どこに行くんだろう。

ここ20年のインターネットの邁進を肌で感じることができて幸せだな、とは思う。
ネット社会の、リアルの、それぞれの良し悪しを、移行期間だったからか、どちらも満遍なく見てこれたと思う。

夜11時を待って接続する回線だったり(←テレホーダイw)、BBSで顔も名前も知らない大人と好きな音楽談義ができてドキドキしたり、目に見えない世界と繋がる楽しみを覚えた。

そうかと思えば、大好きなミュージシャンのライブチケットを買うために、夜中からチケット販売店の店頭に並んだり、楽しみにして行ったら臨時休業していた美術館の近くを散歩して好みの店を発見したり、というような体験ができた。

今はネットワークへ接続するのに苦労するなんてほとんどないし、ライブチケットは先行予約で申し込んでおけば、知らない間に購入できたりする。

すべては効率化、なんだと思う。
こうして昔を懐かしむというのは、年老いた証拠だろうか。
今は今で素敵なこともある。
けれど、昔でなければ感じられなかった素敵なことも確かにあった。

今日は10年後の昔だ。
だから今を、今しか出来ないことだったなんて今すぐにはわからないけど、だからこそ、様々なところに手をのばして、もっともっと今を愛でたいな、と思っています。

なにせ、この小さな窓はいつでも、世界に開かれているので。

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