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『猫を捨てる』 メモ書き


子供である私たちは、自らが生きる世界の中で、自我と他我の区別もないまま世界と直に触れ合い始める。目の前に広がる果てしのない風景に魅せられ、背中の方でいつも見守ってくれる両親や保護者の気配を感じながら、少しずつこの世界の中に自分の痕跡を刻んでゆく。紛れもなく揺るがし難い「私」という存在。そんな確固とした事実の起因となった「両親」について考える時、人はたちまち足場を失ってしまう。なぜなら子供をつくることにはどこまでいっても偶然性に付きまとわれるからだ。子供から見た「私」という動かし難い事実と、「両親」から見た偶然性に満ちあふれた子供。一人の「私」を、自分から見るか「両親」から見るかで分かたれる、埋めようのない溝がそこにはある。

我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか(p96)

子供である私たちは、「私」を唯一無二の事実として受け止めている。しかしその根拠をどんなに求めても、出てくる答えは偶然の積み重ねでしかない。村上は父親の生前の生い立ちを辿りながら、戦争や家族や地域との関わり合いのなかで様々な偶然に左右されていたことを発見する。そしてその偶然の連なりの内に、自らが生きているということを強く意識する。

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう(p96)

2009年のイスラエルにて、村上がエルサレム賞を受賞した際のスピーチである「卵と壁」(『雑文集』新潮文庫 所収)にも、幼い頃に自らの父親と交わした会話の場面が描かれている。

私の父は昨年の夏に九十歳で亡くなりました。〜私が子供の頃、彼は毎朝、朝食をとるまえに、仏壇に向かって長く深い祈りを捧げておりました。一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。「戦地で死んでいった人々のためだ」と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと(『雑文集』,新潮文庫,p99)

戦場で命を落とした「固有ではあるけれど、交換可能な一滴」としての兵士たち。その一滴一滴の雨水が持っていた「思い」や「歴史」を、同じ雨水である私たちは「受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある」。父の祈りの姿勢から村上が引き継いだものによって、父のことを語る『猫を捨てる』は書き上げることができたのだろう。

父は亡くなり、その記憶もーそれがどんな記憶であったのか私にはわからないままにー消えてしまいました。しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っています。それは私が父から引き継いだ数少ない、しかし大事なものごとのひとつです(同,p100)

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