千葉さんのツイートを見てつらつら考えたこと


「「無限の命を可能にする」ような産業」。それはおそらく、死に直面し、または死に思いを馳せることで傷ついてしまったあなたにそっと寄り添ってくれる「やさしさ」に満ちたものだろう。自分の無力感を嫌というほど味わう死という現象から、「ケア」という名目で癒してくれる、そうしたコンテンツを生み出してくれる「産業」を成立させるべく資本が駆動する。近い将来そうした傾向が一定の支持を集め、死を直視したい派との対立構造が発生するかもしれない。そうしたことを千葉さんは仰っていると思われる。


死を否認したいという欲望に資本が駆動され、人々が消費する「産業」として成立したものとして真っ先に思い出すのがDioだ。

これは2010年に亡くなったミュージシャンであるRonnie James Dio(通称:Dio(ディオ))をホログラムでステージに投射し、スピーカーから流れる彼の過去のライブ音源と同期して”パフォーマンス”するという代物だ。楽器陣はDioにゆかりのあるミュージシャンたちが実際に演奏している。

2016年に発表されたこの試みは2017年と2019年のワールドツアーを実現させたものの、批判も相次ぎかつ非常に予算がかかることもあってホログラムから普通の映像を流す形式に方針転換するとアナウンスがあったのが2021年。

正直に言えば、映像を見てもそこまで魅力的とは思えないし、生前の彼を知っている人からすれば腹立たしいと思うこともあるだろう(そうした批判もされている)。一方で若い世代や最近になってDioのことを知った人にとっては、たとえホログラムであってもライブが行われることでDioの音楽に触れる機会となることは間違いない。

ヘヴィメタルという音楽ジャンルが誕生して半世紀近くが経ち、存命のオリジネイターたちがバンド結成50年記念ツアーを行い、70代という年齢で世界中に出向きライブを行なっている現状を鑑みると、このジャンルにおける”クラシック”な曲の数々をどのように継承していくことができるのかという悩みを少なくない関係者の人たちが抱いていることだろう。

ヘヴィメタルという新興の音楽ジャンルが現代において経験しているのは、人間の寿命に起因する強制的な世代交代だ。歴史を重ねるあらゆる文化が通過せざるを得ないこの出来事は、何を受け継ぎ何を捨てる(受け継がない)のかという事態を嫌が応にも発生させ、おそらくそれは巨大な資本と人々の支持、そして偶然によって左右されていくのだろう。

まさにその潮流のもと巨大な資本によって実現したのがこのDioのホログラムだと言えるだろう。

ここ数年、こうした事例を見聞きしながら個人的に妄想していることがある。それは襲名性の導入である。例えば1969年にデビューしたJudas Priestというバンドは、ヘヴィメタルという音楽の成立に最も寄与してきたその歴史により、このジャンルを演奏する・聞く人たちの中で最大の尊敬を集めている。しかし彼らもやはり70代という年齢を迎え、今だに世界中でライブを行なってはいるものの一部のメンバーの演奏は代役を起用している。いわばオリジナルメンバーとサポートメンバーのハイブリッドな形態だ。それならいっそ、”Judas Priestの公式2代目ヴォーカリスト”、みたいに下の世代にその座を譲り、バンドの過去の曲を演奏することで音楽を継承するとともに、若手ミュージシャンのキャリアを後押しするような機能を果たす役割を担うというのも一つの手ではないだろうか。その際に契約を”このツアーのみ”とするのか”数年間”とするのか、はたまた60歳定年制”とするのかいろいろ考えどころだとは思う。そしてもちろん全てのバンドがそうした措置をとるべきとは思わない。しかし加齢や体調不良により同様のハイブリッドなベテランバンドが増えている昨今、ある程度の規模のバンドはいっそのこと伝統芸能等で行われている襲名制のように新世代に譲り渡すようなことがあってもいいんじゃないだろうか。そしてそのことは、冒頭のツイートで指摘されていた、「「無限の命を可能にする」ような産業」とは異なっていると私は思う。

襲名という営みについて私は、”名前を継承する”、以上の知識を持っていない。しかしこの襲名について素朴に考えてみるととても不思議な気持ちになってくる。なぜなら襲名とは、死なせたくない(消えて欲しくない)と思う大切でアイコニックな名前を死すべき次世代の人間に付与するという行為だからだ。つまり、”死んでほしくない名前”を”死ぬもの”に再び与えるという行為を通じて”生き永らえさせる”ということだ。普通に考えれば、”死んでほしくない名前”を死なせないためにはなるべく”死ななそうなもの”へ与えると考えそうなものである。しかし襲名は死ぬとわかっている人間にその名を与える。そして死ぬとわかっているからこそ、その人はまた別の人にその名を与えていく。そうした行為の繰り返しこそが、”死んでほしくない名前”を”生き永らえさせる”ための有効な手法であると、きっと昔の誰かが発明したのだろう。

こうしたねじれた論理構造を内包している襲名と、単に死者の映像を流して代用とするDioのホログラムコンサートは対照的である。後者はあくまで生前のDioのアーカイブに依存しており(、DeepLearningのパターン学習によりDioの映像音声の新たなヴァリエーションが生み出せるのかもしれないが、ひとまずは生前の映像音声を援用している現在のホログラムという点で言えば)、有限の継承行為である。だが襲名により新たな人間に名を与え続けることは、オリジナルとは一定の差異を常に発散しながらもより自律的で未来に開かれた運動がそこには現れているように見える。雑に言ってしまえば、ホログラムは95%を再現できるがアーカイブが消えたらそれでおしまいになり、襲名性であれば7〜8割ほどの再現率だけどいろんなトラブルにも対応可能な柔軟性がありどこか健全な雰囲気があるように思う。

こうしたホログラムと襲名制の対立構造は、私の主観的な感想以外の何物でもないのだが、そうした独りよがりの意見を最初に紹介した千葉さんの言葉とからめて言えば次のようになる。今後、私たちの社会は「死を死として認めない」自由(=選択肢)が資本から提供されるだろう。そしてそれは一定の支持を得て消費される事業やコンテンツとして流通していく(例えばDio)。一方で、そうした状況に対して昔ながらの「死は死だ」という認識を保持し続ける人たちもいる(死を受け入れるor襲名性を導入する等)。そのため折り合うことが難しい両者の間には溝が生まれ、社会の分断を構成する一つのテーマとなるだろう。

Dioのホログラムコンサートを知ってから、時折その意味を考えていた。単純に好きか嫌いか、観たいか観たくないかといった表面的な肯定と否定ではない何かがひっかかっているのをずっと感じていた。そのもやもやとしたものを、千葉さんのツイートをだいぶ強引に引き寄せつながら言語化してみたけれどなんとも言えない記事になってしまった。今後もまた考えていきたい。

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