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『ケーキの切れない非行少年たち』に対する個人的な違和感を書いてみる

非常に売れている。発売後に様々なメディア・著名人に紹介されたことで大きく売れ、それらが落ち着き発売から1年半が経とうとしている現在においても書店の店頭で売れ続けているのを(データとしても、実際のレジでも)実感する。前々からその売れ方に対して私は違和感を感じていた。障害を扱った他の本の売れ行きとは違う「勢い」のようなものに気圧されていた。
今になって初めて読み、やはりその違和感は間違っていなかった、少なくとも私にとってあまり賛同できない構成によって作られた本であったことがわかったので以下で順に述べていきたい。

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この本の著者は少年院での勤務経験を通じて、非行少年の一定数に知的障害があり、また知的障害によって適切な教育の機会を提供されることがなく「歪んだ」認知機能を形成してしまった、という主張をしている。「見る力」「聞く力」が弱いと、周囲の状況を把握できず他者の言葉に対して過剰な反応をしてしまう。推論の能力や時間概念の認識が乏しいゆえに行き当ばったりな行動を繰り返す。そういった「反省以前」、つまりは自らの犯罪を省みることができないのは当人が不真面目なのではなく、反省する能力そのものが欠如しているためだ、と第1、2章において述べられる。

知的障害( or 境界知能 or 低IQ)者が周囲にケアされることなく成長期を過ごすことで、認知機能が歪んでしまい、結果的に加害へと向かうのは教育の失敗であり、その教育上の「被害者」が新たな「加害者」になることを繰り返さない、それこそが今後の教育に必要なことだと本書の中では繰り返し述べられている。

私が勤務していた医療少年院は、まさにそういった少年たちの集まりでした。本来は大切に守ってあげなければならない障害をもった子供たちが、学校で気付かれずに適切な支援が受けられないどころか、さらに虐待を受け、イジメ被害に遭ってきた。そして最終的には加害者になってしまっていたのでした(p114)

もちろんその主張は正当であり、喫緊の課題であることは強く同意する。ただ、本書の内容を見渡してみると、その語り口にどこか偏りが感じられ、他の同様なテーマの本ではあまり見受けられない(と個人的に思う)部分がある。

それは“欠如の強調"と“論理の飛躍"である。

本の帯に使用されている「非行少年が”三等分”したケーキの図」のような、認知能力の欠如を(ある意味センセーショナルに)強調する場面が本書にはいくつかある。もちろん、新書というフォーマット・語り下ろし的文体・注や参考文献の不在といった特徴から、いわゆる一般読者に向けた構成という制作方針があったであろうことは想像に難くない。普段、知的障害や触法障害者に関心が無い人にも手にとってもらえるよう、一目で能力の欠如がわかる図を帯に使っていることからもそれはよくわかる。ただ、店頭で実際に本を売っている肌感覚として、この本を読むことで自分たちと違う別世界の人間を覗き見ている、未開の人たちを外から観察している、そんな感覚を読者に抱かせるようプロモーションされているように感じる。

そういった感覚はあくまで私個人が感じたことである。ゆえにこの“欠如の強調"自体は、ただの感想に過ぎない。対して、“論理の飛躍"については客観的な問題があると私は考える。

本書において根拠や結論を示す文脈で、「〜と思っている」や「〜はずです」という言葉遣いがよく使われる。著者は仮説だと述べている場面もあるが、デリケートさが求められる議論において使われることで、普段このテーマに馴染みのない人にとって格段に読みやすくなるのは間違いない。その読みやすさを優先しデリケートな部分を犠牲にすること自体は否定しないけれども、相応の注や補足事項をつけないことには、犠牲にされた部分にアクセスできない読者が「歪んだ認識」を形成してしまうことは避けられないのではないか。

例として、3箇所ほど本文を引用する。(強調は全て引用者による)

本書で述べている非行少年の特徴は少年院に在院する多くの非行少年たちにも該当すると思っています(p9)
以下はその特徴の背景にあるものを6つに分類し、”非行少年の特徴5点セット+1”としてまとめたものです。保護者の養育上の問題は別として、彼らの特徴は、これらの組み合わせのどこかに当てはまるはずです(p47)
相手の気持ちを想像するのが苦手、こだわりがある、といった発達障害の特徴は、微妙なやり取りが必要な男女関係でいえば、性の問題行動のリスクが高くなるかもしれません(p83)

さらに第七章では、
①知的障害のある性非行少年
②知的障害のある性以外の非行少年
③知的障害のない性非行少年
④知的障害のない性以外の非行少年
の4タイプの少年群に検査を行ったところ、

〜知的障害をもった性非行少年は、注意の転換、処理速度、ワーキングメモリ、展望記憶において、知的障害をもった性非行以外の非行少年よりも有意に低得点でした。一方で、知的障害をもたない非行少年においては、性非行とそれ以外の非行を行った少年の間で検査結果に有意な差は見られませんでした(p175-p176)

その結果を踏まえて著者は、「性非行少年の神経心理学的な特徴は低IQのときのみ現れる」とし、「つまり「性犯罪はある種の発達上の問題ではないか」という仮説です」、と述べている(p176)。
「性非行少年の心理学的な特徴」が「低IQ」であれば数値として検出できる、に対して著者が述べる仮説的な結論は、「性犯罪はある種の発達上の問題」となっている。これは上記の「③知的障害のない性非行少年」を考慮に入れておらず、必要以上に性犯罪と知的障害の結び付きを強調しているように読むこともできる。これこそ「歪んだ認識」ではないだろうか。


まとめ
・著者は非行少年の更生だけでなく、非行少年予備軍と思われる少年たちに対して適切な教育うやケアが必要であると主張する
・それは、まず当人がイジメや虐待の被害者から加害者となり、そして新たな被害者を生むことを避けることにつながる
・その主張とは別に、本書はその構成上、“欠如の強調"と“論理の飛躍"を抱えている
・ケーキが三等分できないことや反省自体ができないことといった、「できないこと」をわかりやすくバズりそうに提示する“欠如の強調"
・読みやすさを重視する(と思われる)構成によって根拠や参考文献が示されず、著者の仮説や主観(「〜と思われる」等)を基に推論が進められる“論理の飛躍"
・多くの読者の手に渡ることになる本書の「強み」が、結果的に読者の「歪んだ認識」を形成することに寄与してしまうのではないか


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障害当事者の現状が広く認識されることそのものは好ましいことである。そして広く認識されるためにはある程度のリーダーフレンドリーさが必要になる。そうした時、フレンドリーさを強調する際に犠牲にして良いものと悪いものがあって、その区別は丁寧にしておいたほうがいい、という意識は欠かせない。要は最低限根拠となる文献を示して主観(「〜と思われる」等)で語り過ぎない、ということが(まるで学生のレポート指導のようだが)当然求められるということが私のこの本を読んで一番言いたかったこと。







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