カントの「限界」概念

物体はつねに空間中に現象する。そのとき、物体の占める場所はその周囲を空間に取り囲まれている。その場所と周囲との境界が限界である。「限界(Grenze)」という単語は「国境」という意味をもつように、その内と外を意識させるものである。さらに言えば、その外と内の双方に否定的な意味はない。国境で接するドイツとフランスに否定的な意味がないのと同様である(p239)

「限界(Grenze)」は空間内的イメージを持つ。

人間理性・悟性はこの限界内で思考することで客観的認識を維持することができるが、ひとたびこの「限界」を超え出て考え始めるとそれは超越的であり、主観的な独断論に陥ってしまう。

だがこの主観的で独断的と批判される超越的な思考をカントが一切否定するのかと言えばそうでもない。
脱線気味な話や比喩的な話も含めれば、
『純粋理性批判』では私たちとは別用の認識形式をもつ存在者であればヌーメノンを認識できるとか、
『視霊者の夢』では透視や未来予知をする当時のスピリチュアルな著名人スウェーデンボルグの話を嬉々として書き綴ったりとか、
『永遠平和のために』では平和を実現するために国境(まさにGreanze)を越えた訪問権の提唱だとか。

哲学における客観性の確立を目指したのが『純粋理性批判』の目的であって、それはカントという人間が発する哲学の一部でしかない、という認識は「限界」という概念をある時は客観性の確保のために使いある時はひょいっと飛び越えてしまうことからも感じ取れるなあと思う今日この頃。


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