見出し画像

『沈黙の春』の感想

図書館でふと目について『沈黙の春』を読んでみた。環境保護と自然界の生きものの尊さを謳った古典、という一般知識的理解でこれまで手に取ったことはなかった。

この本によると、20世紀中盤のアメリカでは広範囲に生えすぎた植物や害虫に対し、大量の除草剤や殺虫剤を空から大量に散布していた。繁茂しすぎた植物や定着してしまった昆虫を駆除しようとところ構わず散布された化学薬品、DDTに代表されるそれらは、規定の範囲内であれば駆除対象の生物以外には無害である、という主張のもと上空から住宅地も森林も区別なくばら撒かれた。その結果、生物濃縮により昆虫が姿を消し鳥が死に絶えそして人々が中毒症状に陥った。そうした報告の数々をカーソンは次々に並べ立てる。こうした当時の報告の数々は歴史的に重要であり、この時代のアメリカが、いかに政府主導による(現代から見れば)杜撰な薬品散布を行っていたかが伝わってくる。

加えてカーソンは、化学薬品によらない駆除方法として増えすぎた植物昆虫の天敵種の活用を提案している。例えば日本から外来種としてアメリカに定着したマメコガネへの対策として、捕食昆虫をアジアから輸入したり、コガネムシ科にのみ感染する伝染病を蔓延させるといった方法だ(p129〜132)。自然の脅威に対して自然の力で対抗しようとするこの手法は、根絶を目的とする化学薬品とは対極にある生物の多様性を活かした対処法と言えるだろう(ただこの手法は文庫本の解説にて、人為的な目的のために天敵種を野に放つことは自然の生態系への介入であるとして批判されてもいる)。

一方、ちょっと煽情的だと思える部分もしばしばある。例えば次の箇所。

私たちの世界が汚染していくのは、殺虫剤の大量スプレーのためだけではない。私たち自身のからだが、明けても暮れても数かぎりない化学薬品にさらされていることを思えば、殺虫剤による汚染など色あせて感じられる。たえまなくおちる水滴がかたい石に穴をあけるように、生れおちてから死ぬまで、おそろしい化学薬品に少しずつでもたえずふれていれば、いつか悲惨な目にあわないともかぎらない。わずかずつでも、くりかえしくりかえしふれていれば、私たちのからだのなかに化学薬品が蓄積されていき、ついには中毒症状におちいるだろう。いまや、だれが身をよごさず無垢のままでいられようか。外界から隔絶した生活など考えられこそすれ、現実にはありえない。うまい商人の口ぐるまにのせられ、かげで糸を引く資本家にだまされていい気になっているが、ふつうの市民は、自分たち自身で自分のまわりを危険物でうずめているのだ。おそろしい死をまねくものを手にしているとは、夢にも思わない(p229)

もちろんこの文章が書かれた時期における喫緊の問題をなんとかしようと訴えるカーソンの気持ちが入っていたことは当然といえば当然だし、人々の感情に訴えることが効果的な手法であることはいつの時代も有効な手段である。そうしたしたたかさも込みで、『沈黙の春』の叙述は有効な戦略だと捉えることもできるだろう。ただ、後世の視点から文章を読むと、どうしても情緒的過ぎるよう私には思えてしまう。言葉を選ばずあえて批判的に言えば、ポピュリスティックな言い回しが目についてしまうということだ。こうした文言をどの程度許容し、どの程度から抑制するかは読む人の好みが別れるだろう。けれども個人的な感想を述べるのであれば『沈黙の春』はちょっとやり過ぎていると感じた。


さて、ここからは環境保護とは別の視点から『沈黙の春』を読んでみたい。個人的な関心として気になったのが、この特定の植物や昆虫の脅威に対して対象の生物の根絶を目指そうとする人々の心理だ。例えば当時のアメリカでは、定着して数十年経っていたヒアリに対し、「この蟻は南部の農業の略奪者」「鳥や家畜や人間の殺害者」として駆除計画PRが大体的に行われた(p214)。突如として盛り上がったこのキャンペーンは、映画まで作られるほどの宣伝ぶりだったという。

ある程度身近な存在となり、かつ他の虫と比べても特別な人的被害が出ているわけでもないヒアリに対し、急激な排除感情が現れている。その原因は特に言及されていないし、本を最後まで読んでもよくわからないのだが、人間社会ではえてして起こりうる現象ということもできるのではないか。

最近の例で言えば、新型コロナウィルスの感染拡大に伴う人々の感情がそうだ。感染の原因と思えるものに対して根拠もなく高められた拒否反応や排外的な感情。営業を続ける飲食店や居酒屋、他県ナンバーの車や旅行者に対して、事情を一切考慮せず嫌がらせや犯罪行為が行われた報道は記憶に新しい。それまでであれななんでもないことが、あるきっかけを境に明確な理由もなく排除されてしまう。そうした行動を私たちは残念ながら繰り返している。

こうした事例から私が思い出すのは『人間狩り』での議論だ。この本の主張をざっくり言えば、西洋の哲学や宗教、そして政治思想には人間を「狩る者」と「狩られる者」に二分してきた歴史があるということだ。狩る者は一方的に狩られる者を捕らえ、追放し、ときに殺害する。そうした狩られる者の対象となった人々は、あるときは奴隷であり、またあるときは宗教的マイノリティや移民であった。このような狩る者と狩られる者という構造が、時代や地域を超えて反復されてきたとシャマユーは指摘する。

このカールシュミットの友敵理論を「狩猟」という比喩で拡張したかのような『人間狩り』の主張を、人間以外に対する狩猟行為にも応用してみよう。『沈黙の春』でカーソンが繰り返し述べていたのは、当時のアメリカは外来種や繁殖過多な生物を排除し根絶することを目指したということだ。そこには人間に危害を加えたり自然界の生態系を破壊するといった実害が伴う場合ももちろんあるが、ヒアリのようにその根拠が示されない種もあった。そして一度狩りの対象とされた種はその危険性が喧伝され、狩りの手段(化学薬品の大量散布)が正当化された。

除草剤や防虫剤を辺り一面に撒き散らすことの危険性を訴えた『沈黙の春』は、その環境保護と自然を支配しようとする人間の行き過ぎた行動を強烈に批判した。その主張の根本は今日でも色褪せていない。ただ私個人の関心ごとに引きつけると、そうした従来の読み方とは異なった、これまで人間社会(※)が反復してきた狩る者と狩られる者へ分割する構造を『沈黙の春』にも見出すことができる。特定の虫や植物を狩られる者としてロックオンすれば、少なくない人々の感情はその排除の流れに抗うことなく突き進んでしまう。そしてそれは狩る者と狩られる者の分割位置をずらしながら今後も続けられていくだろうと思われるのである。

※『人間狩り』で取り上げられていた歴史は主に西洋社会なので、この狩りの構造が西洋社会以外を超えた普遍的なものかどうかを判断するほどの知識は私にない。けれども、もちろん全てではないにしろ、結構広い範囲に当てはまる構造だろうとは直感的に思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?