「DX」とは言うけれど。
中央公論2021年5月号に掲載されている、「コロナ後の「脱ミニ東京・持続可能性都市」戦略」という記事を読んだ。人口減少社会が抱える問題点を、「コロナショック」を奇貨として、持続可能な社会のあり方を議論・提案・実行していこう、とう趣旨である。東京一極集中を緩和させるテレワークがコロナ禍で促進され、ジェンダー格差を是正する具体的な提言がなされる昨今、一つの場所に囚われず過去の因習にこだわらない、人の流動性が高く創発的な仕事が生まれやすい社会を構築してゆくことが急務である、と主張される。
全くその通りだと思う。硬直的な日本社会を転換するための「ショック」としてコロナ禍を捉えることが、現状をポジティブに昇華/消化できるわかりやすい道であるし、理念として進むべき方向がこちらにあることは強く首肯する。
ただ、個人的な立場からあえて言うと、この提言が有効なのはホワイトカラーの労働者たちだけであり、私を含むテレワークでは代替不可能な労働者には(短期的には)ほとんど関係がないという点だ。もちろんホワイトカラーの働き方が向上することで、波及効果は期待できる。オンライン上での仕事のやり取りやIOTの活用は、長期的にはあらゆる産業に影響を及ぼすだろう。そうした産業構造の変動は過去にもあったことであり、変化の必然性があるからこそ、今のうちから議論を重ね新たな制度を提案していくていくことは非常に大切である。
この中央公論の記事も含めた、日本の将来像を語る議論に対して私が感じる違和感は、(議論の大半が)特定の人たちしか対象にしていないのに、あたかも全ての人たちを対象としているように主張される、という点だ。そしてそこから零れ落ちる人への言及はほぼない。要はこの議論はテレワーク可能な職種の人たちへ向けた議論であって、保育・教育・介護といったケア労働者や製造・小売といった社会インフラ労働者(コロナ禍の用語で言えば「エッセンシャルワーカー」)は(少なくとも短期的には)対象ではない。独立行政法人労働政策研究・研修機構のデータを見ると、2020年の総労働人口6676万人において、「卸売業、小売業」の就業者数は「1057万人」(全体の「15.8%」)である。それに「製造業」や「医療,福祉」、「建設業」、「教育,学習支援業」等々を足してゆくと5千万人規模になる(https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/chart/html/g0004.html)。一体この人たちの中でどのくらいの割合の人たちがテレワークが可能なのだろうか。「DX」できるのだろうか。
現状でその答えは出すのがとても難しいことはわかるし、労働者の不安を煽るような提言が敬遠されることも理解できる。さらには「イノベーション」なるものは、現状からは予測不可能な技術革新という意味を含むのだから、現在の私たちが不可能と考える業界の構造を一気に変えてしまうこともあるだろう。
単調な仕事に喜びを見出す労働者や、創造的でない作業こそが適正な労働者は一定する存在する。生育環境や個々人の性格、教育水準や障害の有無といった多様な個人の属性は、どのくらいの割合で「クリエイティブ」な社会に適応できるのだろう?ここ10年くらいだろうか、いわゆる「1億総クリエイター社会」的な提言がなされるようになったのは。こういった主張をする方々はあまりにも単調な人間観に基づいているように私には見えてしまう。さらにより深刻なのは、自分の人間観は単調であるという自覚を主張者が持っていないことに、私はいつも落胆するのである。
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)には、そのような社会の趨勢が、人々にどのように働きかけ、救われる人と損なわれる人を生み出してゆくのか、そうした現代社会の良し悪しが丁寧に叙述されている。
中央公論に載る記事であれば、いつまでも変わらない日本社会に対して行われる提言であれば、「DX」や「クリエイティビティ」は存分に主張されるべきだ。社会的な決定力を持った人たちに影響を及ぼすことが重要なのは言を俟たない。だが、労働者の多くを占める「ワーケーション」や「ノマドワーク」と無縁の人たちに向けられた言葉がもっとあってもいいのではないだろうか。例えばホワイトカラーを主要な顧客としていたサービス業従事者が、地方移住&テレワークの促進によって顧客を失う場合、どのような転換がお求められるのか、とか。少なくとも「DX」を主張する人たちは、長期的には全ての労働者に資するかもしれないが、(短期的には)一部の労働者にしか関係しないことを(注釈の一文ででもいいから)付言してくれたら、私のような労働者にとってはより誠実な提言として受け取られるだろう。
中央公論のこの記事に典型的に現れている、労働者人口が多いにも関わらず初めから議論の対象とされていない人たちへの、多少の言及やエクスキューズがもう少しだけ増えてくれると、議論の裾野が広がるし多くの人に届きやすくなるのになあ、といつも思うのだけれど。