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ぶらり関西みて歩記(あるき) 守口宿

〔最終回〕
紛争の歴史と因縁の深い盛泉寺と一里塚跡を訪ねる。

守口宿の最終回。

難宗寺の土塀に沿って立つ石碑のある辻から、道を横断して細い道へまっすぐ入って行くと盛泉寺がある。慶長11年(1606)、教如上人を開基として創建されたと伝えられる、東本願寺の末寺である。難宗寺が「西御坊」と呼ばれているのに対し、こちらは「東御坊」と呼ばれる。

難宗寺と同じく、元和元年(1615)「大坂夏の陣」で焼失した。その後も風水害をたびたび被っていた。現在の本堂が再建されたのは、焼失してから200年以上も経った天保11年(1840)のことだ。

徳川家康は、東西の本願寺を並立するにあたって、浄土真宗を二分して支配したといわれている。その分離の際に難宗寺の本堂は西本願寺派に残り、東本願寺派は新たな寺院を建立したらしい。それが盛泉寺だと伝えられている。

明治元年に大久保利通が「大阪遷都案」を提出した三月後、明治天皇が京都から大坂へ移って難宗寺に宿泊された。盛泉寺を内侍所(賢所・かしこどころ)とされたことで、大坂は、ほんの一時的でも日本の首都であったという説もある。

盛泉寺は、紛争に深い因縁があるようだ。大塩平八郎の手紙が保存されている。文政13年(1830)に大阪西町奉行所与力・内山彦次郎に宛てたもので、大塩が現役の与力だった頃、盗賊役として、内山は東西の相役だったという。大塩平八郎の乱が鎮圧されたあと、西船場の美吉屋五郎兵衛方に潜伏していた大塩父子を発見し包囲に加わった人物でもある。

国道1号線を横断して、さらにまっすぐ歩くと見えてくるのが「一里塚跡」だ。第二代将軍・将軍徳川秀忠が五街道を整備させたとき、一里(約4km)ごとに設置して旅人の便宜を図った。

一里塚跡

写真を見ると「いかにも!」といった佇まいの石碑を一里塚跡だと勘違いしてしまいそうだが、これは説明板である。本当の一里塚跡は、その後ろにある「榎」の木だ。長い道のりを旅してきた人が遠くからでも見えるように、塚のそばに大きな木を植えて目印にしたもので、今立っている木は、その何代目か子孫の木と伝えられる。

秀吉が築いた文禄堤とその周辺を訪ねる旅は、今回でおしまい。次回からはまた新たな場所へ、歴史と散策の旅に出かけてみたい。

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