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ぶらり関西みて歩記(あるき)

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東海道は五十三次、すなわち街道沿いに53の宿場があったというのが一般的な認識だ。ところが実際には五十七次あって、枚方は56番目の宿場として栄えていた。
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2022年3月の記事一覧

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第3回〕 口縄坂/学園坂 ■口縄とは「蛇」のこと 天王寺七坂それぞれの名称のうち、5つ…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第2回〕 源聖寺坂 ■市電の敷石を石畳に転用 名の由来は、坂の上り口にある源聖寺である…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第1回〕 真言坂 ■七坂とはいうものの…… 大阪市天王寺区の夕陽丘地区と呼ばれる一帯は…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第14回(終)〕 与謝野晶子 ■不倫がキッカケで歌壇デビュー? 与謝野晶子は明治11年12月…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第13回〕 三好達治 ■架空の町で生まれた? 明治33年8月23日、大阪市東区南久宝寺町(現…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第12回〕 川端康成 ■700年続く名家 「伊豆の踊子」「雪国」「古都」「千羽鶴」など数々の…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第11回〕 薄田泣菫(すすきだきゅうきん) ■中学を中退し独学で勉強 明治10年5月19日、岡山県浅口郡大江連島村(現、倉敷市連島町)に生まれ、本名を淳介(じゅんすけ)という。  少年時代は読書好きで、高等小学校時代には、雑誌に詩文を投稿したこともある。 岡山中学校(現、朝日高等学校)を2年で中退して上京した淳介は、上野の図書館に通いながら独学で勉学に励んだ。 明治30年、初めて「泣菫」を名乗って「新著月刊」に投稿した13篇の詩「花密蔵難見(はなみつにしてみえがた

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第10回〕 宇野浩二 ■父の急死で大阪へ 本名を格次郎といい、明治24年7月26日、福岡県南…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第9回〕 織田作之助 ■生まれたときは「鈴木作之助」だった 大正2年、大阪市東区東平野…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第8回〕 折口信夫 ■10代で才能が開花 折口信夫(おりくちしのぶ)は明治20年2月11日、…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第7回〕 井原西鶴/直木三十五 ■一昼夜に千句を詠んだ西鶴 江戸時代の初期に活躍した井…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第6回〕 開高健 ■けん? たけし? 「健」の読み方を「けん」か「たけし」で迷う人が多…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第5回〕 伊東静雄 ■今も多くのファンに愛される詩人 日本語の独特な響きを華麗に駆使し…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第4回〕 林芙美子 ■尾道が心の故郷に 明治36年に生まれた芙美子(本名、フミ子)の出生地について、彼女自身は「下関市」と語っていたが、出生届けは叔父の家がある鹿児島で出されている。 芙美子の誕生を、実父の宮田麻太郎はなぜか認知しなかった。そのため「林フミ子」として、母方の叔父の戸籍に入ったのである。 幼少期の芙美子は、麻太郎の浮気が原因で、母と番頭の沢井喜三郎に連れられて家を出た。長崎・佐世保・下関・鹿児島を転々としたり、あるいは山陽地方の木賃宿を泊まり歩いたりす