”世界”の話

 別になんか今の世界情勢とかそういう時事的な物とか歴史的な物の話ではないです。
 こんにちは、我思う故に我あり、ちゃいなです。今回は我々人間が個々に見ている世界の違いに付いて書き綴っていこうと思います。スピリチュアルだねぇ~。
 興味が無い人の為に個人的なおススメのニコニコ静画を置いときますね。
 ひきざんトートロジー / 柾塚ちい
 なんか女の子がいちゃいちゃしそうで全然いちゃいちゃしないし心に闇抱えてる登場人物達がなんか上手くいきそうでやっぱダメでーーーすって言われるような奴です。面白いですよ。

”世界”は認識で出来ている

 貴方は自分の生きているこの世界のどれだけの事を認識できていますか?
 自分の部屋の配置、机の引き出しの中身、時計が指し示している現在の時刻、家の間取り、玄関を出たさきに広がる近所の光景、通学通勤に使う道、その間にある施設、道路にある標識、学校のクラスメイトや、仕事の同僚、教員や上司、それらの家族。
 テレビやネットで見かけたどこかで起きてるニュース、教科書等の書物で得た知識、SNSで話題になったイベントや施設、プレイしているソシャゲ、等々等々。
 認識は生きていて普通に生活しているだけでも無限に広がって行きます。行ったこともない場所でも、そういう場所があると認識した瞬間、あなたの世界には飢餓で苦しむアフリカの子供たちが生まれるのです。
 本当に存在するのか?存在しているとしてもそんな常套句はもはや二十年近く昔から言い続けられてる事なのに、そんなに募金活動していてもなんの成果も無いのか?とんだ無能だな、止めたら?その活動。

 まぁそれは置いといて、その人物に置いて世界とは自らが認識した範疇だという話。
 この下らない記事を見てしまった瞬間あなたの世界に私と言う異分子が取り込まれてしまったというわけですね、かわいそ~この時点でこの記事を閉じたりブラウザバックしたりしてももはや手遅れ、これは呪いの文章ですよ、己の好奇心によって己の世界を穢したのです。

 さてもう少し建設的な認識による世界の差について記して行きましょう。そうですね、わかりやすく差と認識できる差を持つものの例として、霊能力なんてどうでしょうか、例なだけにね、フフ、レイなだけに……。
 あなたはありますか?霊能力。霊的なモノが見えたり、感じられたりする第六感みたいなモノ。あなたが持ってなくてももしかしたらあなたの世界の中にはそれを持っていると自称する人が居るかもしれませんね、まぁそれは今どうでも良い事です。
 霊能力がない人とある人では見えてる世界が違う様です。強いて言えばある人は通常の世界に+αを認識出来ているという事ですね。幽霊とかなんかそういう奴が。
 私はこれに関して否定的な立場ではありません、残念ながら私の世界の中には未だ霊能力があると自称する方が現れて居ないので実際に聴取して理解を深められないのですが、私はこの霊能力というのは認識の違いでしかないと思っています。そして同時に私もまた霊能力は無いと自負していますが、そうでない他者と違う認識によって同じ物を見て違う意味を見出している可能性が十分にあるわけですね。

 霊能力とは別ですが、ルビンの壺というのを知っていますか?大抵の日本人は義務教育中に見た事があると思うんですけど。多義図形って言うんですかね、ルビンの壺は壺に見えたり向き合った人間に見えたりする奴ですね。他には婦人が化粧台の前に座っているようにみえたり髑髏に見えたりするのも有名でしょうか。
 これを二通りもしくはそれ以上の複数の意味ある形として捉えられるかどうかという難しい話もあるんですけどそれは今の話には関係ないので、複数の意味あるものを見出せる状態として話をすすめます。
 これらをそれぞれの形として認識しようとする時、注目する部分、ピントを合わせる部分を変化させる事で意味を切り替える事が出来ると思うんですよね、私はそうやって認識をズラして両方を認識するタイプなんですが、違う?違います?それはそれですでに私とあなたには認識、世界の差があるという事ですね、素晴らしい。
 まぁつまり、そういう事なんですよ、自分に見えない物が見えると他人が言う事は。
 数年前、調べたら2017年らしいですね。頭の良い人と悪い人の見方の違いで流行ったのもほぼ同じ事ですけど、視覚から得た情報の処理は人それぞれです。霊能力もそれの一種だし、そうでない頭の良い人と悪い人の見方の違いもそうです。
 同じ景色を見ていても、それは同じ世界では無い。隣にいる人と同じ景色を見ていたとしても、それはもはや隔たれた異世界同士なのです。もし、同じ景色を見て、同じ感想を得られたのならば、きっとあなた達の世界は似通っており、擦り合わせる事が容易な良き関係を結べるのでは無いでしょうか?

 個人であっても世界の広がりは無限に連鎖してしまいます。情報があふれる現代なら余計に。それが幸福な事なのか、不幸な事なのかは、まぁ人それぞれでしょう。世界が広がる事で幸福になる事もあれば不幸になる事もあるのです。
 海老の尻尾とゴキブリの甲殻が同じ物質である事とか、マンボウは寄生虫まみれだとか、お日様の匂いはダニ等の死骸の匂いだとか、ぶいちゅーばーの中の人だとか。
 それが真実かデマかは別として、認識してしまったからにはそれを改めねば新たな認識で上書きする事はできないのです。


”世界”を変えるか、自分を変えるか

 世界を変える事は難しいが、自分を変える事は簡単だ。

 な~~~んて話、あったりなかったりしますね。不満があるならそれを変えれば良い。でもそれが難しいなら自分が変われば良い。自分を変える事は誰にでも出来る。ってね。
 まぁ前提として先に書いた通り世界とは自らの認識で作られている物なので結果だけ言えばどちらにしても同じです。あなたの世界はあなたの自由です。変えたければ変えれば良い。ただ認識するだけです。あなたの都合のいい世界になるように。
 法律を変えるのは確かに難しい、ですが何事にも利点と欠点があります。今の貴方はきっとその法律の欠点部分を受容しているのでしょう。まずはその法律に対する認識を改め、例えばしっかりと知ったり、同じ法律の影響下にある他者の様子を探り、自らが都合の良い形でその利点を受ける形を作れば良いのです。
 人間関係も環境も全てそうです、自分にとって都合のいい形に変容させてやれば良い、それそのものを変えなくても世界は変ります。自らの認識を変えれば、自らも変化するし、世界もまた変化するのです。

 あなたの世界はあなただけのモノであり、他人と共有することはできず、他人に邪魔される必要はありません。
 総菜コーナーでポテトサラダぐらい作れと声をかけてくるおっさんなんて存在しないのです、仮にそんな存在がどこかにあったとしても、それを自らが認識しなければあなたの世界には存在しません。
 あなたが認めない存在を、わざわざあなたの世界に受け入れてやる必要などないのです。
 目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤み、孤独に暮らせばあなたの世界は万事平和なのです。
 

社会と”世界”

 先の言葉は攻殻機動隊で有名なセリフをお借りしています。
 もしくはその更に大本のサリンジャーの引用なのかな、あまり学がないのでなんとも言えない、ただ雰囲気で使っている、怒られそう。

 さて、それはそうと社会と世界って何が違うのでしょうか。一般的な用法の世界ならば社会の方が世界に含まれている物でしょうかね、所詮社会は人間の集合体でしかないので。
 ただ今回話している個人の認識による個人の世界も別に社会の内側に存在する物ではないと思います。
 なぜなら個人の世界の中に社会という認識が含まれていて、だからこそ社会という形態が存在するからです。
 なのに多くの人間は自らその矮小で限定的な社会とやらに自らを閉じ込めなければならないと思い込んでいる節があります。
 社会とは所詮世界(どちらの世界を指しても)の中にある枠組みにしか過ぎません。
 大きく区切れば、国、県、市、村、親戚、家族、みたいに入子型になっている枠組みなわけです、更には学校、クラス、班、企業(会社)、部署等もありますね、子会社とかもあるしグループ企業とかも上位の枠組みになるでしょう。
 こういった枠組みから外れて行った結果無敵の人が生まれるのだろうな、なんて関係の無い事も考えつつ。
 所詮これらの社会は枠組みでしかないです、そしてその枠組みの中に入るも別の枠に移動するも特に規制があるわけでもありません。別の枠組みがある事を認識したり、その枠組みから外れたり、別の枠組みに移れるという事を知る事は大きな利点です。

 しかし、これは自らの世界が広い、社会を俯瞰して認識する事ができる世界の広さを持つ人間にしかできません。
 一つの枠組みの中の情報しかない、そんな世界を持つ人間もいます。その人はその社会=世界と認識しており、それ以上自身の世界も広げようとしない、広げられない人も存在します。
 その人にとってはその社会規模の世界こそ絶対なわけです、別に悪い事だとは言いません、人それぞれです。
 重要なのは自分がどうかですからね、自分はどうなのか、自分の世界はどうなのか、自分の認識はどこにあるのか。
 自分の世界にとって狭いと感じる社会に閉じこもる相手は果たして本当に自らより矮小な世界の持ち主なのか。
 それを知ればあなたは更に自分の世界を広げる事が出来るでしょうし、果たしてその広がりはあなたにとって良いモノかどうかはわかりません。

 あなたはどうしますか?



世界の擦り合わせ

 さて、人には個々に世界があり、それは似ているようでそうでなかったり、全く違う異世界だったり、あたかも自分の世界は相手の世界よりも広いと認識してしまう可能性があったりするクソつまんない話をしてきました。
 社会なんてクソだとは思いながらも人と人で交流しあい、恋愛だの結婚だのする事もあったりなかったりするでしょう。
 その時必要なのが個々人の世界の擦り合わせ、情報の共有ですね。円滑な人間関係の為にはこれを行い妥協ラインを探り合うわけです。
 例えばこの文章も私の世界からそのまま紡ぎだしたらわけのわからないレベルが高いであろうことが予想されたので頑張って妥協ラインを探り探り吐き出しているのでもしまだ読んでる酔狂な人間が居たら感謝して咽び泣いて頂いても宜しいのですよ。まぁ別に円滑な人間関係を望んでるわけでもないし、なんなら私のこの文章をあなたは認識してしまったが、私はこの文章を読んでるあなたや、あなたがこの文章を読んでしまったという事実は一切知り得ないので認識する事ができないのですがね。
 つまりあなたの世界に私が生まれても私の世界にあなたは生まれないのです、ザマァねぇなwwww草wwwwww
 と言ってみたはいいですけど最近のこういう奴に漏れずnoteにもいいねみたいな奴があって態々誰がいいねしたって伝えてくるので私にも認識させる術が完備されちゃってるんですね、悔しい、一方的に存在を押し付ける事が出来ない世の中になってしまいました。ネットサービスはダメだな、やっぱ書籍だよ書籍、それも紙の本が良い。

 世界の擦り合わせは非常に難しい事です。何が難しいって、そうですね、俗な言い方になりますが、常識って奴はあまりにも差があります、これが全てと言ってもよいです。
 今まで世界世界ってクソデカ地球規模の言葉を使っていましたが実はこれ常識と言い換えてもよいです。
 アインシュタインも言っていました、

 常識とは十八歳までに身に着けた偏見のコレクションの事を言う。

 ってね。
 そして常識とは、無意識化で行う習慣でもあります。言葉として伝える程ではない、と思い込んでる要素ですね。パンツにうんこついてるとか。
 これは会話、言葉で伝えない部分なのでいざ同じ世界を共有しようとなった時最高に異物になります。パンツにうんこついちゃう事じゃなくても料理の味付けとか洗濯物の畳み方とか、当初特に共有する価値はないと思われた認識だったのに実はそれがとても大きなズレになってしまうわけですね。
 このズレをなくすために世界をすり合わせる、認識を共有する、常識の違いを明らかにする。その為に結婚前に同棲期間を設けたりするわけですよ。面倒臭いな、籍だけ入れて一人暮らし同士のままで良くない?っていうか今結婚の話ではないよね?やめやめ!

 まぁ少なくとも他人と交流する事によって世界の共有化が行われ強制的に世界は広がるという話です、何度も言ってますがこれが良い事か悪い事かは人それぞれの、それこそその人の世界が持つ資質次第でしょう。
 結婚ともなれば相手の世界からその親族に繋がり急速に強制的にその世界が広がり、自らの世界が何らかの社会を踏んでしまう事になりますからね。それが良いのか悪いのかは人それぞれでしょう。

 そしてこの文章もまた、私の世界とあなたの世界の擦り合わせの一種なわけです。自らの思考は自らの世界を表しているといっても良いし、それを言語化し、あまつさえそれを公開する事などもはや露出狂のソレです。あなたはいま私の露出を見せられている、そしてその情報によって己の世界が穢されているわけです、しかしこれを取り締まる法律は無く、これを推奨する場があるのみです。

 これが世界の利点を享受するという事です、わかりましたか?勉強になったと思ったら なんかタメになったなぁ と思ってしまった過去に読んだnote記事、に限らずあらゆる思想的、経験論的な文章をそのまま受け取るような愚かな事はしないようにしましょう。
 あなたの世界はあなた自身が作り上げその中に存在すべきものを取捨選択する物なのだから。

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