仏教ってなに? 応用編ー10
六波羅蜜
六波羅蜜とは大乗仏教の菩薩が極めるべき修行課題とも言えるものです。
六波羅蜜の波羅蜜とはパーリ語のPāramī パーラミー、サンスクリット語のPāramitāのパーラミターの音訳で、意味は完成・完全・彼岸に至るという意味です。ということで、六波羅蜜とは六つの完成という意味ですが、その六つとは何かというと、
1.布施(Dāna ダーナ)=与える事、分け与える事、物惜しみしない事
2.持戒(Śīla シーラ)=自分を律する事
3.忍辱(Kṣānti' クシャーンティ)=気にしない事、超然とする事
4.精進(Vīrya ヴィーリヤ)=努力する事
5.禅定(Dhyāna ディヤーナ)=集中する事
6.智慧(prajñā プラジュニャー)=物事のありのままの姿を見通す叡智
ただ、完成するとか彼岸に至るといっても実際にどういう状況なのか分かりにくいと思われますが、大乗仏教もあくまで釈尊の教えを踏まえたものなので、その釈尊の基本的な教えを思い起こせば分かりやすくなると思います。
あの空の理論を集大成した龍樹も、主著は「空論」ではなく「中論」であり、結局、彼は釈尊の説かれた「中道」の教えから導き出される帰結を空という言葉で説き直した訳であります。
という事で、波羅蜜ということも「中道」の境地を極めた状態と言い直すことが出来ると思います。要する、中道のところでもご説明したとおり、自分と他者という自他分離の主客対立などの二項対立の境地を超えた境地に達することです。
自他分離の境地を真に超えることができれば、自分や自分のものに執着することなく本当の意味で他者とすべてを分かち合う境地になれる、それが布施波羅蜜であり、自分自分という囚われが無くなれば自分の欲望に振り回されることも無くなる、それが持戒波羅蜜であり、自分に対する囚われが無くなれば、どんなことにも超然としていられるそれが、忍辱波羅蜜であり、自分に対する囚われが無くなれば、自分だけ怠けようという発想もなくなる、それが精進波羅蜜であり、自分に対する囚われとそれに起因する欲望が無くなれば心が乱れる原因がなくなり自ずと完全なる集中が可能となる、それが禅定六波羅蜜であり、自他分離・主客対立の境地を超えた完全なる中道の境地に至ることができれば、自ずと、ものごとのありのままの姿を見通す叡智が備わる、それが般若波羅蜜なのです。
そして、結局、自他分離・主客対立の境地を超えた完全なる中道の境地に至ることができれば、自ずと、ものごとのありのままの姿を見通す叡智が備わり般若波羅蜜が成就されるわけですが、それは同時に他の五つの六波羅蜜も同時に成就されることになるわけです。
従って、六波羅蜜というのは、一つ一つを順番に成就できるようなものではなく、究極的には上記の自他分離・主客対立の境地を超えた完全なる中道の境地に至ることができなければ、何一つ、波羅蜜できない訳で、逆に言えば、完全なる中道の境地に至ることさえできれば、六つの波羅蜜が一気に同時に成就されるということです。
また、そのような完全なる中道の境地に至るには、それぞれの六つの波羅蜜行のどれかを一つでも極める過程でそのような自他分離の境地を超えて完全なる中道の境地に至ることができれば、一気に、他の五つの波羅蜜も成就できるのです。
このように、六波羅蜜というのは、完全なる中道の境地に至ることが前提とされているという意味で、このサイトの最初の方でご紹介した八正道と重なります。
八正道のうちの正語・正業・正命は持戒波羅蜜に該当し、正念・正定は禅定波羅蜜、正見・正思は般若波羅蜜、正精進は精進波羅蜜にそれぞれ該当します。これに布施波羅蜜と忍辱波羅蜜が加わったのが六波羅蜜であると言えます。
取り敢えず自分が阿羅漢になる為に八正道が基本だったのでしょうが、社会中で他者とともに仏道を歩もうとする菩薩にとっては、自分と他者との関係において、分け与える気持ちや、物惜しみしない態度がとても重要になってきますし、社会の中でのどのような誹謗中傷にも囚われない心境になれることも菩薩としての欠かせない要件になると思います。
このようにして、この六波羅蜜は大乗仏教の菩薩行という理念とともに強調され始めたものと思われます。
年代的には、紀元前150頃に六波羅蜜経という般若経典類より古い経典が存在したという説もあり少なくとも般若経典類よりは古い起源を持つことは確実なようです。
般若経典類は当初並列的に説かれていた六波羅蜜の内、特に般若波羅蜜の重要性を強調した経典であるとも言えます。ということは、般若経典類が成立したころには、すでに六波羅蜜の概念がある程度普及しており、そういう前提の中での般若波羅蜜の強調であったと思われます。
しかし、法華経が登場すると、その法華経の中では、法華経を身に呈して人に説く者は、自然に六波羅蜜を成就するという記述も見られます。
要は、先にご説明致しましたように、本当の菩薩行に専念していくうちに自然と自他分離・主客対立を超えた中道の境地に到達し、気がついたら六波羅蜜が成就できていたなどということもあり得るのではないかということです。
ただ、普通はそのような心境に成れるのはほんの瞬間であって、次の瞬間には、再び自分自分という心境に戻ってしまうのが凡夫というものです。
その辺が、そのような心境を完全に成就した仏との違いであるといえます。つまり、仏と道途上の菩薩との違いは、仏は成就の度合いが完全であるのに対して、途上の菩薩は成就が一時的だということだと思います。ただ、そのような道途上の菩薩でも何度も自他分離を忘れるような心境に至ることができれば、しだいに仏の心境に近くなっていけることも確かです。
そこら辺に菩薩行を続けていく意味があるのかもしれません。
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