仏教ってなに? 応用編ー5-2
勘違いか?でっち上げか?
バラモン教の梵我一如の思想と釈尊の無我の思想の違いを一言で表現すれば、梵我一如においての目覚める前の自分というものは「勘違い」の自分であって、本来、大海そのものである自分を波の1つとして「勘違いする」ところから迷いの状態が始まっており、その勘違いの誤りに気付いて、本当の自分は波ではなくて大海そのものだったのだと目覚めれば迷いの状態は終わるわけです。つまり、梵我一如の思想に於いては「何らかの本当の実在のようなもの」が勘違いしている状態から目覚めることが必要であることが説かれている訳です。
所が、釈尊の説かれた無我の思想は、ものごとの本当の在り方を知らない無知により、自分と他者と言う妄想がでっち上げられ、そのでっち上げられた多数の存在を識別する作用もでっち上げられ・・・と言う風に、真実を知らない無知により、先の十二因縁のところでご説明したその後の全てがでっち上げられていくと言うことになっています。
そして、ものごとの本当の在り方を悟って根源的な無知が無くなれば、その後の数々のでっち上げもきれいさっぱり雲散霧消するというふうに考えられます。
ただ、全てが雲散霧消した後には何が残るのか?という問題と、そもそも、ものごとの本当の姿を悟るのは「誰」なのか?という根源的な疑問が残るのですが、その辺の本当の所はまさに悟ってみないと分からないとしか言いようがなく、ここでどんな推測をしてみても、単なる想像に過ぎないと言われればそれまでかもしれません。
逆に言えば、迷いから目覚めて、全ての妄想が雲散霧消したあとに残った認識主体そのものがブラフマンでありアートマンであるとシャンカラやヤージュニャバルキヤは言っていたのかもしれないので、釈尊の悟られたのは本当はどっちだったのかという問題は、仏教学者の見解が二分されるほどに相当な難問であることは確かです。
僕の個人的な見解を言わせてもらえば、迷いから目覚めて、全ての妄想が雲散霧消したあとに残った認識主体というものは、いかなる姿かたちを持った実在物とは同一視されてはならないというものです。
たとえば、バラモン教でも、この世の全てのものはブラフマンの顕れであるという見解がありますが、こういう見解こそがあらゆる誤解を生む元であり、そのような短絡的な誤解は、釈尊の教えから、もっとも離れたものだと思う訳です。
仏教でも、この世のあらゆるものは宇宙的生命である仏の顕れであるなどいう見解がしばしば見受けられますが、そう言う見解こそ正に外道の発想であり釈尊が否定された、全てのものの実体と実在性を認めようとする我見であり、本来の無我の思想である全てのものは妄想であって実体も実在性もないという考え方に真っ向から反対するものであると言わざるを得ません。
日本の中世には、天台本覚思想という正に上記のような誤解にまみれた考え方が広がり、そのせいで、当時の比叡山の僧侶は非常に堕落していたと言われています。もし、人間も全て宇宙的大生命である仏の顕れなのであれば、もうみんな既に仏なのだから、今更、修行する必要もなくなるわけです。ありのままそのままで結構なわけです。仏教が存在する意味もないのです。そして、実際に天台本覚思想にかぶれた僧侶たちは堕落していたと言われています。全ての存在を仏のように敬うと言う思想は大変重要だし、正に菩薩の発想だと思いますが、文字通り、全てのものが仏の顕れだと短絡的に考えるのは仏教の根本を否定するような発想であることを忘れてはいけないと思います。
第一に、仏は創造主でありません。仏は慈悲の塊のような存在です。そのような慈悲そのものであるとも言える仏が、弱肉強食の無慈悲な世界の背後に居てそういう世界を現出させる訳もありません。
そもそも弱肉強食の無慈悲な世界というものは、自他分離の妄想にかられた自分が、自分と争うべき多くの他者を妄想として現出させたもので、仏の顕れなどでは決してないからです。
そのような誤った妄想によって現出された無慈悲で弱肉強食の苦しみの世界が、本来は自分自身の利己心と敵対心の現われなのであるということを悟るために、仏道修行があるのに、この世界のすべてが仏の顕れであるという発想では、安易な現状肯定に繋がってしまい、目覚める必要性も悟る意味も分からなくしてしまいます。
また、仏を生命に喩えることは、生命の本質と仏の本質の両方を見誤らせることにもなります。生命の本質は代謝であり、個体及び個体の集団である「種」の存続のために他の個体を利用するという特質を持っています。人間の利己性も生命であるが故の特質であるようにも見えますが、実は自他分離の妄想こそが生命現象の原動力なので、話は逆なのです。いずれにしても生命とは正に妄想を原動力とするものなので、その妄想から脱した仏を生命に喩えるのは、火事を消そうとしている消防士を放火の犯人だと言っているようなものなのです。
そのような生命活動の無慈悲な本質を赤裸々にあぶり出し、これでもかと言わんばかりに人々に突き付けたのがあの宮沢賢治です。彼は、生物としての利己的な自分と他者を思いやる菩薩のような心をもつ「夜鷹」がその矛盾に葛藤して、最後は空のかなたまで飛び続けて、生物としての自分に終止符を打って、夜空の星になったという正に仏教思想の本質を見事に描ききった名作を残しています。
そういう意味では、宮沢賢治こそが、近年のあらゆる仏教者の中でも本当の意味で釈尊の思想を深く理解していた偉人の一人であると思います。
いずれにしても、この世の全てのものがブラフマンや仏の顕れであるという発想が誤解を生みやすいのは、この世界というものが、人それぞれによって違う世界を見ているという仏教の大前提を無視した表現だからです。
先に応用編1のところでも見ましたように、そもそもこの世界のあり方というものは無数にあり、人それぞれの心のあり方と過去からの行いの記憶によって、無数の可能性中のから毎瞬一つの世界を選択しており、人類みんなが同じ未来や過去を共有しているわけではないということです。
利己的で敵対心に満ちた人が選択していく世界は、戦いと敵対に満ちた世界であり、そのような世界ではやがて核戦争が起きて、そこの人類は滅んでしまうかもしれません。しかし、常日頃から他者の幸福を願いその為に行動している人が選択していく世界は、互いに助け合い協力しながら悟りの道を歩んでいく平和で安穏な世界かもしれません。
法華経の16番にも出てくる「衆生劫尽きて。大火に焼かるると見る時も。我が此の土は安穏にして。天人常に充満せり。」というような表現も「たとえ多くの人がこの世の終わりが来て全てが焼き尽くされるよう状況を経験しているとしても、私の居る世界は安穏であり、清らかな存在や人々が沢山いる」という意味ですが、これは決して仏が居る世界はあの世のような別世界だといっているわけではなくて、同じ世界でも、迷える人々が見る(選択する)世界と仏のような心境の人が見る(選択する)世界は隣り合わせの別の世界のようなものだと言っている訳です。
従って、この世の全てというものが見る人によって違う以上、安易にこの世の全てが仏の顕れだなどとは決して言えない訳です。
確かに仏が見ている世界は、仏の心境の現れかもしれませんが、我欲と闘争心に満ちた人が見ている世界は地獄のような世界かもしれないからです。
従って、地獄のような世界というものはあくまで自らの心が映し出したものであり、決して仏が映し出したものではないことを忘れてはならないと思うわけです。
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