バローズは避難所だった


ソニックが運営していたアコースティック系のライブハウス旧burrows

いわきに避難してまもなく、旧バローズに知り合いのバンドマンが避難してることを知り、Wi-Fiがつかえたので現状を打破すべく自分も転がり込んだ。狭い親戚宅に多い時で10人が寝泊まりしてて居づらかったのもあったりして。後に犬と一緒に避難したソニックの楽屋を使わせてもらったり、関野君はじめソニックのスタッフには本当にお世話になった。そのバローズやソニックでは、支援物資を集めては運んでる地元ミュージシャン達を目の当たりにして刺激を受け、避難中の身ではあるものの自分にハッパをかけながらパソコンを持ち込み、友人のネットワークとTwitterやmixiなどのSNSで情報の収集と発信、そして東京のライブハウスGARAGEに協力してもらって支援物資の募集を始めた。一夜にして双葉郡住民がバラバラになった事と、山間部に避難した人たちは携帯が繋がりずらかったのもあって、当時は役場と一緒に避難所に行かなかった人はほぼ安否不明という状況。巷に溢れる沢山の「探し人」から、対象を富岡の人に限定して、友人知人みんなが協力して安否確認が始まった。実際に見た聞いたという話から、避難所の名簿洗いざらいまで、できることは全部やり、なかには見つかって連絡が取れた人もいれば、一旦見かけたあと、自宅に戻って第二波にのまれてしまった知り合いの夫婦もいた。20km圏の捜索は3/12には打ち切られたので、その安否が判明したのは1ヶ月後だったが…。その一報をうけた時は、警戒区域制定前、圏内に立入した際、あの瓦礫の中をどうして捜索するという発想にならなかったのかという後悔ばかりがのこった。遡れば3.13にガレキに埋もれた富岡駅前を撮影した時、行方不明者がいるとは知らなかったことにも。
情報がないということは、救える命も救えない残酷な現実だということを思い知らされ、この震災で最も大きな悔いとなって残ることになる。しかしそれは、以降のモチベーションの一つとなって自分を突き動かしていった。

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