パンツ「汚した」という語弊
性教育において「パンツを汚す」という表現に違和感を覚えている。
例えば、子どもが排泄物を誤って下着につけてしまうことを言う場合、
「パンツがおしっこで濡れた」「パンツにうんちが付いた」の方がより正確であり、適切ではないかと思う。
己の体から排出されたものが「汚れたもの」「汚いもの」と刷り込んでしまうことを心配しているからだ。
トイレ掃除を嫌う人は、排泄をする場所で、排泄物は汚いと思ってしまうからではないだろうか。
私もそう思っていたし、いまだにその考えは拭いきれない部分がある。
でも、ある時、「排泄物=汚い」という概念を覆す出来事があった。
キャンプ中、使用済みの「おりものシート」を捨てる場所が見つからなくて、ポリ袋に入れておいた。
翌朝、ポリ袋の中に蟻の集団がどこからか侵入し、おりものを餌にしていた。
私から出た汚物は、蟻のご飯になっていた。
この時、自分の排泄物が汚いものとは思えなくなった。
うんちだって、肥料になり、それで野菜を育てることができる。
やはり「排泄物」=「汚い」は偏った考えなのではないか。
自分から出るものが汚いのなら、その容器である自分も少なからず「汚い」ということになりはしないか。
汚い自分が、汚いことをしても、仕方がないと正当化してしまうのではないか。
私が思う「汚い」は、筋の通らないことを力任せに他人の意に反して押し通す言動だと思う。
確かに、このような汚い言動をする人間は多いが、それだけが人間ではない。
自分の感覚を頼りに、自分を潰そうとする勢力に対して立ち向かう勇気ある言動をすることだってあるのも人間だ。
あるものを綺麗と感じるのも、汚いと感じるのも、人それぞれの感性から来る。
いろんな感性があってもいいはずなのに、子どもの頃から、排泄物を「汚い」と断定してしまうのは、なんだかなーと思うのだ。
あなたはどうだろう。
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