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両親に魂を殺された子の生還記
フラッシュバック
……真夜中、目が覚めると、下腹部に違和感を覚えた。
くすぐったいような、気持ち悪さ……。
下着の中で、私の陰阜を撫でている手。それは右側から伸びていた。
お父さんは寝ぼけているのだろうか……?
それなら、その手を振り払おう、と俯けの状態から寝返りを打つように左側で寝ていた母の方を向いた。
すると、その手は私のパンツの後ろを握った。
恐怖。混乱。恐怖。
一瞬で心も体も凍りついたが、同時にその場に居ても立ってもいられなくなり、なるべく素早く、でも誰も起きないよう、なるべく静かにベッドから抜け出し、両親の寝室を出た。
そのまま、斜向かいにあるトイレに駆け込み、便器のレバーを押し、水の音が流れた。
直後の記憶はない。同じ2階にある弟達と共同の寝室に戻ったのだろう。
翌朝。母親から突然、こんな言葉をかけられながらギュッと抱き寄せられた。「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」。
???お父さん…メゴメゴ…よかった???
お母さんが......喜んでる?
混乱のあまり、言葉が出なかった。
Blackout
役立たずのぬいぐるみ
……4歳児のクラスPre-K(プレキンダー)初日、おばあちゃんが東京から送ってくれたばかりの立派な猫のぬいぐるみを持っていった。
本物の猫のような色と形をしていただけでなく、バッテリーを入れてスイッチを押すとニャーニャー鳴く。
私はそんなことより、大きなぬいぐるみの中に何か隠せるような深いポケットがあれば良かったのに……と残念に思った。
以後、そのぬいぐるみとの記憶はない。
初めてついた嘘
……帰宅してキッチンに行くと、カウンターに作りかけの真っ白なホールケーキが置かれていた。私は思わず、生クリームのアイシングに人差し指を突っ込んで一口舐めた。
指跡に気づいた母親は険しい顔で私を問いただし、私はとっさに「ううん」と言った。
母親は「嘘つきに育てた覚えはありません!嘘は泥棒の始まり!」などと怒鳴りながら私の頬を手の平で叩き、2階にあるウォークインクローゼットの中に私を閉じ込めた。
私は泣きながら、鍵のかかっていないドアを少し開けたが、一階に降りて行った母親が怖くて出る勇気はない。でも暗いのも怖いので、灯りのスイッチをつけた。
細長く狭い空間を見渡すと、左側の棚に置かれた荷物に被せられた布の下から画像が覗いていた。布を捲ると、苦しそうな表情の女性が肌を露出している姿が映っている雑誌が何十冊も積み上げられていた。初めて見たにも関わらず、誰のものか直ぐに見当がついた。
その瞬間、母に怒られて悲しかった気持ちがスーッと引いた。
私が衝動的にクリームを舐め、叱られることを恐れて嘘をついたことは体罰に値するほど許されないことだけど、こういう陰湿な趣味を持つ父が、アノトキ私にしたことについてアノヨウナ嘘をついたことが通ったのはナゼ?
お母さんは「嘘つきに育てた覚えはない」と言ったけど、その嘘という術を学んだんだのは、あなたが選んだ男からだよ?あなたはアノトキ、嘘をつかれて「よかったねぇ」とか言って喜んでいたけど、結局やっぱり、お父さんが私にしたこと、あなたに言ったことは、よくなかったんだよね?でも、まだお父さんに騙されているお母さんのことを、どう信頼すればいいの?
母から貰ったペンダント
Pre-Kのトイレで、母からもらったハート型のロケットのネックレスを便器に落としてしまい、便器に手を入れることができず、なくなく流した。
このことを誰にも話したことはない。
お漏らし
キンダーガーデンに上がった時、「May I go to the bathroom?(トイレに行ってもいいですか?」と何故か言えず、教室で座ったままお漏らししてしまった。
下着とスカートがビシャビシャになって不快だった感触を覚えてる。
初恋の人
初めて好きになった子は、一年生からクラスが一緒になった金髪で青目のハンサムなドイツ系アメリカ人で、悪ふざけをしていつも先生から注意されるひょうきんな男の子。
彼は歩いて数分の近所に住んでいたので、一緒に遊びたかったけど、母が毎日、学校の送り迎えして一緒に家まで直行して、宿題と家事の手伝いをするという退屈な日々を過ごしていた私には、近くても遠い存在だった。
ある日、私は母の目を盗んで、別の道を通って、彼の家の前に行った。すると、彼がいて、私が持っていたボールをパスするように言った。私は喜んでボールをバウンスさせて彼にパスした。
次の瞬間、母親が怒鳴りながら私を連れて帰った。私は好きな人の前で怒られて恥ずかしかった。
それ以降、その子がうちに来て教科書を借りに来ても、素っ気ない態度を取り続けた。
彼は4年生になると寮生の学校へ転校したけど、ずっと想いを寄せていた。
彼の家は同じ場所にあり、彼が原付キックボードやスポーツカーを乗り回す音は聞こえていた。
「先生から嫌われてる」
一年生に上がり、私は母に「先生から嫌われてる」と伝えたらしい。
母から聞いた話だが、言ったはずの私は先生の顔も名前も、なぜ嫌われてると思ったかなど、何一つ思い出せなかった。
時計の時間
「なんでこんなこともわからないの!?」と母は私をビンタしながら何時間も怒鳴り続けた。
私は泣きながら、鼻水を大量に啜って、呼吸困難になり、ヒックヒックと声が出てしまうのが、嫌だった。それを止められない自分も、母も、全部嫌だった。
なんで、こんな思いをしながら、時計を正しく読まなくてはならないか分からず、肝心な勉強は益々頭に入らなかった。
九九の時間
九九の上段に躓くと、母親は鬼のような険相で怒鳴り続けた。
私は怖くて、なぜこんなに怒られなくてはならないのか理解できず、涙が出たが、母は容赦なく怒鳴ってきた。
この頃から私は「母親から嫌われてる」と理解する方が楽になっていた。
嫌われてるから、暴力を振るわれるのは仕方ない、と納得していた。
「仲良し家族」
……富山にある料亭の娘であった祖母の血を受け継ぐ私。紐育で生まれ、物心つく前から、本鮪や海鼠など、和洋折衷の旨いものを惜しみなく、家族から与えられながら育ち、まんまと食いしん坊に成った。
「飲兵衛に育てるのが夢」とよく言っていた父。私が生まれる前、世界中を放浪し、紐育に辿り着き、日本食レストランの皿洗いからウェイター、バーテンダー、そしてマネージャーに上り詰めた、などなどの経歴を持つ。
そんな彼と駆け落ちして、東京から渡米し、ワイハ島で結婚式をふたりだけで挙げ子作りの末に、第一子の私を紐育で産んだのが、生真面目一本の母。「もう、そんなに甘やかして」と、葡萄の皮を剥いてから私に食べさせようとした父に放った声色を、子供心に覚えている。そんな彼女も食いしん坊で、長子の私を密かに特別扱いする節があった。
例えば、母が手造りしていたイカの塩辛。烏賊の口の部分「トンビ」の旨さは彼女が教えてくれたのだが、私が毎回頂いた。小さくて一個しかない希少部位なのに、あのコリコリとした噛み応えを味わえたのは、家族5人中、私だけ。2歳年下に二卵性双生児の弟がふたりいるが、この味覚、お主らにはまだわかるまい、という優越感を覚えると同時に「これだけはわかってたまるか」という厳選的な独占欲も私の中に育まれていった。
海外で生まれ育ちながら、日本食中心の豊かな食生活に恵まれて、さぞ幸せな暮らしをしていただのろうと思われるのも無理はないと思う。
私自身も「美味しい物をたくさん食べられるから幸せなんだ」と思い込んでいた。毎晩、腹を下すまでご飯を何杯もおかわりした。伯父からは「ブタ」と呼ばれて泣いたことがある。
ブリミア(過食症)なのか?と自分でも何度も疑うほどだった。でも米国にいる過食症の大半は「痩せるために、食べ過ぎては嘔吐を繰り返す」人達だった。なので、自分は全く該当しないと思い直した。私は常に細身で、痩せたい願望とは無縁だったし、吐くのは嫌いだったし、下痢は自分の意に反して起こる現象だった。正露丸を呑みながら「お母さんやお父さんのご飯が美味しいから仕方ない」「私は痩せの大食いなんだ」と何度も自分に言い聞かせて納得していた。
「躁的防衛」
食事は毎回美味しかったし、私はいくら食べても太らない体質だった。でも思い返せば、食べ過ぎて腹を下したのは晩ごはんの時だけ。朝と昼はそんなことなかった。
毎晩午後7時頃、父が帰宅した後、家族全員揃って手を合わせて元気よく「いただきます!」と言ってから食べ始める。それは父親の希望であり、お約束だった。それは、仲良し家族の象徴のようだった。
豪華な食卓を囲む「仲良し家族」のイメージ。それは、幾度も呼び覚まされた両親による不可解な言動の後味の悪さと、どうしても噛み合わず、私の脳内は常に靄がかかったようだった。自分の記憶や感覚にすら自信がなくなっていた……。
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