パンスの現実日記 2020.7.19

 昨日からか、なぜかタイムラインに「グリコ・森永事件」というワードが散見されるようになったので「どういうことだ」と思っていたら、「プラスティックごみが増えるので、お菓子の過剰包装をメーカーはやめてほしい」という高校生の署名活動が始まっていたのだった。それに対して、「お菓子の個包装はグリコ・森永事件での毒物混入を受け、対策として始まったものだ」と指摘する人が続々と出てきた、という流れだ。僕はこの事件が発生した1984年に生まれているので、指摘が事実ならば、お菓子を食べるくらいの年齢になったら当たり前のように個包装で食べているはずなのだが、自分の実感に即しておらず、おかしいな、となった。個包装になったのはごく最近だという印象があるからだ。これはまたネットで他者をやりこめたい人が生み出したフォークロアに違いないと思いつつ、自分のおぼろげな記憶だけだと説得力がないので調べてやるぞ! と取り急ぎ検索開始したら、もう詳細に調べている人がいた(すごい!)

 この記事を読むと、グリコ・森永事件を受けた対策はなされたものの、数年で軽装化に向かっていることが分かる。90年代前半、バブル崩壊からのコスト削減や、環境問題への意識によって行われたというのは僕の記憶にも通じている。「リサイクル」という単語が流行っていて、子どもながらに「リサイクルは大事だ!」などと考えていたし。空き缶のプルタブが、缶から外れないタイプになったのもよく覚えている。いつだったのか念のため確認したら1990年頃とのこと。

 そして本格的に個包装化したのは、マーケティング的な理由もありゼロ年代以降と。これも実感に即していたので知ることができてよかった。つまりグリコ・森永事件説はわりと根も葉もないのだが、興味深いのは、僕くらいの年齢だったらただちに「いやおかしいのでは」と感じる説でもたちどころに流布してしまう状況だ。つねに問題になっている歴史修正主義だが、ほんの30数年前の出来事でも都合良く酒の肴ならぬ、ツイートで他人を引き摺り下ろしたい人の肴として利用されてしまう事実にガッカリしてしまう。
 因みにグリコ・森永事件やその時代を知るには、宮崎学『突破者』(南風社、1996年)がおすすめだ。自らもアウトローであり、犯人と疑われた立場から語っていて、カネと欲望が沸騰した1980年代が浮かび上がる。個人的には、ネット言論的には? ポピュラーかもしれないテクノポップでニューアカからバブルの時代、としての80年代とは違う視点を入れたいとつねづね考えており、この本もその意味で大変参考になるし、『ポスト・サブカル焼け跡派』のビートたけし編あたりでも反映させていますのでぜひ(宣伝)。

 ところで最近は、この署名運動もしかり、コロナ禍から休校を求めた茨城県の高校など、10代の人たちが社会に問題提起する出来事がチラホラとあり、とても良い傾向だと思っている。というのも、ここ10年ほどの政治や社会について異を唱えるにあたり、大人だったら社会について考えないとダメでしょ(選挙にも行かないと、など)といったアプローチが見られがちで、言いたいことは理解しつつも、割と違和感があるからだ。べつに、子どもでも社会について考えていいのだ。そして、かつては子どもたちも社会運動を起こしていた時代があった。1972年に「内申書裁判」を起こした中学生は、いまは世田谷区長になっている(保坂展人さん)。そういう行為が、再び当たり前になってほしいという期待がある。なおかつ、大人はそれをどう受け止めるべきか。「グリコ・森永事件を知らんのか」などと詰め寄る(※)なんてのは論外として、「高校生“なのに”社会について考えておる」とほめそやすのも、あまり変わらない。まずは、何を訴えようとしているのか粛々と受け止めるのが大事だと思っている。

 本当は今回「管理社会」について書こうとしていたのだけど、回り道をしてお菓子の話になってしまったのだった。

(※)いちおう補足しておくと、グリコ・森永事件について語っているから年配の方だろうというのも予測でしかなく、小学生がドヤ顔で書いている可能性だって否定はできない。その場合は、子どもや大人というより、今回のようにフォークロア的に流布されるネットの言説を内面化する人々という問題になってくるのだが、それについてはまたあとで書きます。


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