パンスの現実日記 2020.9.13

 小林敏明『故郷喪失の時代』(文藝春秋)。2020年に刊行されたとはにわかに信じがたいオーセンティックな装丁がとても好み。「故郷」という観念を軸に、主に文芸作品を取り上げながら日本の近代史を探る。
 「下妻物語」の隣町で育った、つまり田園とデカすぎるショッピングモールに象徴される90〜ゼロ年代初頭の田舎から東京に出てきた自分にとってはなかなか身につまされる一冊である。「故郷」とは、さまざまな表現のなかで「戻るべきもの」として表象され、キラキラした「都会」と対立させられていた。しかし、その裏には格差や犠牲を「故郷」に押し付ける、近代日本の政治システムが隠れている。もっともわかりやすい例が原発であり、田中角栄『日本列島改造論』などを引き合いに示されている。ただしこの構造は80年代くらいから日本経済自体の豊かさによって一旦忘れられるという。このへんは『ポスト・サブカル焼け跡派』の見取り図とも重なるかもしれない。
 流行歌の例も出てくる。「抽象的な故郷」イメージを舟木一夫「高校三年生」に見る。聴衆にとって「それぞれの故郷」に代替可能な概念の提供。さらに年月が経つことで聴衆自身の過去が「改めて懐かしく思い出される」効果を持った楽曲。70年代後期におけるアリスらの「叙情フォーク」は、「この『隠れ故郷』の心情を次世代に合わせたかたちで受け継いでいったといえるかもしれない」。個人的にもっとも代表的なのは松山千春かなと思うけど、そういった要素がJ-POP以降後退していくというのは確かに納得。
 しかし一旦忘れられたとされるシステムは、2011年、福島の原発事故によって急激に噴出する。観念ではなく現実として「故郷」を奪われるという状況になってしまったからだ。これは初めて知ったのだが、事故を受けて「ふるさと喪失」という法的概念が出現したという。
 本書のなかでも指摘されている通り、「故郷」という観念については、小林秀雄の昔(『故郷を失った文学』1933年)から提起されていたのだけど、現在の社会問題に照らし合わせてみたら急にアクチュアルなものとして動き出すというのが興味深い。似たような試みは、最近の文芸作品などに感じることもある。

 Netflixで三宅唱監督『呪怨:呪いの家』。80年代後半〜90年代にかけて日本で実際に起こった事件がモチーフとして出てくるので、パンス的にも面白いんじゃないかとおすすめしてくれる方も多く、ようやく観てみた。たしかにいろいろと出てきて、凶悪事件とかに詳しい人なら本当に細かい描写にも「あ、これは」と気づく要素などが入っており、ほとんどAkufen並のサンプリングの妙を味わうことができる。バラバラに存在している事実がひとつの要因によって「繋がっているかもしれない」と「匂わせる」という発想は、いま世界中を席巻している陰謀論的アプローチにも通じるところがあり、それを作品化しているというのが面白いと思った。物語のなかで主人公のように屹立しているのはひとつの「家」である。一戸建てで、さまざまな人々が行き来する。賃貸なので借り手も変わる。リアルサウンドwebでの評で宮台真司氏が指摘していた通り、この一戸建ての家という存在が持つ孤立感というのは、ポスト戦後社会のなかで形成されたものだ。Jホラーの多くは、そういった「家」や、ビデオやカセットといった現代の機器を媒介として展開される。さきほどの『故郷喪失の時代』につなげるならば、ノスタルジーの対象としての「故郷」から切り離された「家」が現れたのがここ数十年来の状況であり、そこに入り込む土着的なものが恐怖として表象されている。続きもあると思われるので、楽しみ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?