パンスの現実日記 2020.7.13

 中学から高校の頃は、毎日のように日記をつけていた。小学校入学時に買ってもらった「学習机」の、鍵がかけられるタイプの引き出しに入れて、溜まっていったノートが十数冊。上京してからずっと放ったらかしにしていたのだが、10年ほど前に実家が引越しをして、とくになんの連絡もないまま、学習机がまるまる処分されてしまった。「うわっ! あの日記どうなったんだ」と焦り、中のものとかはどうしたの、と聞いてみたら、段ボールに入れて保管してあるというので、もし鍵を無理やりこじあけていれば、その日記も一緒に入っているだろう。当然読まれてしまっている可能性があるが、一応もう大人になったからなのか、特にイヤな気持ちにもならない。どちらかというと、かつての記録が消えてしまうのが気がかりである。2001年の同時多発テロのときは今後の世界情勢について熱く語っていたし、初めて恵比寿のみるく(というクラブ。2007年に閉店)に行ったときは勝手にイベントレポートを書いていた記憶があるので、読み返してみたいな、とも思うのだが、段ボールを掘り返す作業を考えるとどうにも面倒になってしまい、確認しないまま現在に至っている。

 2000年代初頭はまだブログ登場の前。サイトに日記を書いている人はいたけれど、僕はといえば怠惰さゆえに書き方を学ぼうともしていなかったし、そもそもどこかに掲載して読んでもらおうと考えたことがなかった。当時の日記に「東京に出たらライターの仕事がしたい」と書いていた記憶があるが(←さすがにこれを記述するのは恥ずかしい、けどしちゃう)、なぜ発表するという発想に至らなかったのか。しかし、かつては「自分しか読まない」文章を書くのが当然の行為だったよな、と、ふと思い出したのだった。僕に限らず、日記とはそういうものだったはずだ。

 なぜこんなことを考えるようになったかというと、去年末に、また日記を書いてみようと思い立ったからだ。1月からはり切って始めてみたのだけど、ずっと自分のPCに入っているメモ帳にポチポチ書いているだけで、時折一部をFBに投下したりする程度のまま、ズルズルと半年経ってしまったのだった。そんなこんなで気がつけば、自分の考えをSNSに書くことすら少なくなってしまった。

 それにはいくつかの理由がある。まずはその説明をしていくと思う。「自分しか読まない」わけではない場所で、リハビリのような気分で書き始める。




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さて、話は変わり……、明日はこちらのオンライン・トークショウに出演します。

打ち合わせの時点で、現在そして未来の文化状況を語る壮大な内容となり、盛り上がりました。とても楽しみです。僕は歴史好きとして「消費社会の歴史」という所感めいたものを書いて、当日に備えています。どうぞ宜しくお願い致します。

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