今度こそうどん食おう 『MIU404』第2話 / コメカ

最近はまったく見なくなったが、以前はよく、「何か犯罪を犯してしまい、もう自分は社会に身の置き所がないと思い悩む」という筋書きの夢を見ていた。夢のなかでどんな犯罪を犯していたのか、そのディティールはまったく憶えていないのだが、社会から疎外される強烈な孤独感を感じたことが記憶に残っている。急にそのことを思い出したのは、星野源と綾野剛のW主演ドラマ、『MIU404』の第二話を観たからだ。

※以下作品のネタバレ有り。

ゲスト出演の松下洸平演じる実直な青年加々見が、勤め先のハラスメント上司を殺してしまい、偶然遭遇した夫婦を人質にとって逃走を図る。加々見は自分が人を殺したことを認めたくないあまり、夫婦に対して自分は殺人犯ではないと語ってしまう。夫婦は生きていれば加々見と同年代である息子を自殺で亡くしており、彼の言葉を信じることにする。しかし加々見の殺人は主人公たちによってつきとめられ、そして彼には既に死んだ実父から虐待を受けた過去があり、上司と父親を重ね合わせるかのように罪を犯してしまったことが明らかになる。父からその暴力についての謝罪を受けたいと願い、しかしそれが叶わなかった加々見は、夫婦が口にした「最後まで付き合うって約束したのに、ごめんね」という言葉を聞き、連行される前に深く頭を下げ、一礼する。

様々な制約に覆われたいまのテレビというメディアにおいて、「社会からこぼれ落ちてしまう者」を描くための精一杯の努力が、この第二話にはあったと思う。父から家庭内で虐待され続け、逃げるように身ひとつで社会に飛び出した加々見は、なんとか辿り着いた労働現場においてもハラスメントに遭遇する。そこで犯してしまった罪によって社会からの逃走を余儀なくされた彼が向かったのは、忌まわしい記憶しかない生家だった。そこで父を殺し自らも自死しようとするも、辿り着いて初めて、父は既に事故で死んでいたことを知る。彼は社会からも、自死を前提にした父殺し=成立し得ないイニシエーションからも、二重にこぼれ落ちることになる。あがいてもあがいても理不尽な抑圧によって圧し潰され疎外される人間の姿を、いまの日本社会は遠ざけ隠しこもうとしがちだ。テレビドラマがいまやれるギリギリの方法で、その疎外の光景をこの第二話は描いていたと思う。

夢のなかで犯罪を犯したぼくは、「もう自分は社会に身の置き所がない」と感じていた。きっと加々見もそう思いながら逃走していたはずだ。実父が家のなかでそうしたように、ハラスメント上司は社会のなかで彼を抑圧し疎外した。家という場所で抱きしめられることのなかった彼は、社会によって抱きしめられることもまたなかったのだ。どこにも居場所が無い孤独感のなかで、彼は故郷に向けて走っていったのだと思う。

しかし偶然出会っただけの、しかも加々見が人質にとってしまった相手である夫婦は、「いつかまた三人でドライブしよう。今度こそうどん食おう」「いつかまたね」と、連行される彼に語りかける。赤の他人でしかない人間同士が、何とかともに生きることを模索する努力と意志が、このシーンにはある。内側=家にも、外側=社会にも、どこにも行き場の無くなった人間と、それでもなんとか手をつなごうとすること。言うまでもないが、この展開は犯罪や暴力を肯定しているわけでは決してない。その意志は星野演じる志摩の「理由はどうあれ、命は取り返しがつかないんだよ」という台詞、そして綾野演じる伊吹の「殺しちゃダメなんだよ」「相手がどんなにクズでも、どんなにムカついても、殺した方の負けだ」「無実でいてほしかったな」という台詞に顕れている。加々見の暴力も、加々見の父の暴力も、ハラスメント上司の暴力も、すべて等しく否定されるべきものとして描かれる。だからこそ夫婦による「ごめん」という言葉、そしてラストシーンにおける、第一話で伊吹を殴ってしまったことに対する志摩の「ごめん」という言葉が、切実に響くのだ。暴力ではなく言葉を選ぶことの重みが、観る者に伝わってくるのである。これは、どれだけ理不尽な状況に追い込まれても、暴力ではなく言葉を選び、それを通してコミュニケーションしようとすることを、言葉を通して他人に手を伸ばそうとすることを、意志の力で選ぼうとする物語だ。

様々な理由により「社会に身の置き所がない」と感じている人々、社会から疎外されていく人々に、どうすれば暴力ではなく言葉を届けることができるのかを。崖からこぼれ落ちそうになっている人々を、誰かが言葉でキャッチしてあげることができる社会をどうやったらつくれるのかを。そういうことを改めて考えたくなる回だった。ドラマの今後の展開にも期待したい。

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