はかないゆめ

松下洸平さんのKISSを聴きながら寝た夜に見た夢を元にした、お話ともいえないゆめものがたりです。

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このところテレビでの活躍が増えたけれど、劇団に戻れば以前と何も変わらない。
真面目で快活で、えらぶることなんてみじんもなくてだれもが触れるとあったかさを感じる彼。
夫がいる私だけれど、まったく別の意味で彼が好きだった。
そっと近くに居場所を作って、ふう、ってわざとらしく息をついた瞬間「お疲れさま」なんて笑いかけてくれればそれだけで幸せだった。

そんなある日。
普段なら私たち木っ端役者になんて目もくれない主宰が、虫のいどころが悪かったのか突っかかってきた。
君、何が演劇なのかわかってる?
上手から下手まで歩く間に、君は何を表現したいわけ?

役を演じているのならその問いはまだわかる。
でも、その時の私は急な演出の変更でバミリのテープを貼り直すために、ちょっと動いてみてと言われただけだった。
戸惑う私に主宰が何か言おうとした瞬間、PAの向こうからよく響く声が聞こえてきた。

「主宰ー!その演出だと僕、このくらいの声の張り方でいいですかねー」
「ん、ちょっと待って」

主宰の興味は完全に彼に移って私は見事にどうでもいい人に戻った。
ほっとして呆然と佇む私に、彼はいたずらっ子のような笑みを見せながらぐっと親指を立ててサインをくれた。

「今日は彼に救われたね」。
稽古が終わり、仲間のやゆを笑い流しながら着替えて外に出る。
ふと前を見ると大きなバッグを肩に背負うようにして歩く彼がいた。

小走りに駆け寄って、礼を言う。
「今日はありがとう」
「ん?ふふふ」

何があったのかなかったのか。
いつも、だれのことも悪くは言わない。
ただ、彼の中にあるのは、体に染み込ませた役柄を板の上の世界でどう生きていくかだけだ。

人混みの中、ふと並んで歩く彼のぬくもりに触れたくなって、お互い着ているダウンのアウターのもこもこにあやかりそっと腕を近づける。
ぴくん、と感じた気配がする。
そして押しもどす…気配。
やめろよなのか、ひょっとして彼も近づきたいと思っているのか。
こわくて顔を見て確かめることもできない。
お互いの腕と羽毛の間にある不確かなぬくもりをそっと抱えるように二人前を見て歩く。

終電間際の地下鉄駅。
うっかり者の私は家の鍵を稽古場に置き忘れてきたことに気がついた。
夫は出張中。取りに行かねば家に入ることはできない。

「やだ。家の鍵、稽古場に忘れて来ちゃった」
「え、じゃあ家に帰れないじゃない」

そうだった。私は夫がいることを特に劇団では話していないのだった。

「どうしよう」
「うーん。まず劇団の事務所が閉まる前に鍵を取りに行って、その後は一緒に始発まで飲んでましょうか」

持ち前の優しさなのか、一歩先にある何かなのか。
言葉に甘える。その中に、一瞬でも隣にいたいという気持ちがあったことは否めない。

「そしたら俺はここで待ってるんで」
さすがにいっしょに事務所に戻るのは誤解を招くと道すがらの店に腰を下ろす彼。
すぐ戻るからと軽く手を振る。
戻る…戻れば彼が待っている。そんなうれしさについほおが緩む。

けれど。私は致命的な方向音痴だった。
坂を登ったところにあるお店。
スマホでググっても、彼に聞いてもその坂が見つけられない。

泣きそうになっている私の前にふと影がさす。
「この和菓子屋さんが登り口の目印だって言いましたよね」。
閉店時間を迎えてシャッターを下ろしてしまった和菓子屋さんの前に立っていた私。
目印がなくなっては見つけられるわけもないのに。
堂々と言うおっちょこちょいな彼の表情ともう一度二人で会えた嬉しさに涙してしまう。
そんな私に彼は、親指で私の涙をついっと拭って「大丈夫。大丈夫だよ」と優しく微笑みかける。
そして影が私の顔を覆うように落ちて、私も迎えるようにあごを上げてふっと残った感触。

何が起きたか意味を確かめる術もなく、二人店を目指して坂を登る。
ただ、隣にいたいというこの気持ちは道ならぬ恋の入り口なのか。
答えなんて出さないまま、坂を登ったあの店に入りそして。
本当のことを言うまでのこの刹那が永遠に続けばいいのに。


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