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俳の森-俳論風エッセイ第35週

二百三十九、等身大の詩

俳句を読んだとき、こちらに何の用意もないのに、すっと実感が湧き、その句の世界に釘付けになるということがあります。わたしたちが、俳句の表現に、誇張や虚偽を見抜いてしまうのは、わたしたちの感覚がそうさせているのではないでしょうか。つまり、わたしたちの何気ない普段の感覚が、その句の実感の度合いを判断しているように思えるのです。

一方作者の側からいいますと、感動が大きいほど、とかく誇張した表現になりがちです。しかし、自分自身がその感動の最中あるいは余韻のなかにあるときは、ほとぼりの冷めるまで、表現の誇張にはなかなか気づかないものではないでしょうか。

前項でも取り上げましたが、稲田を飛ぶ燕を見ているとき、ふとこんな感慨が頭をよぎりました。
毎日毎日こうやって飛び続けて、彼らももうこの界隈のことは知り尽くしているんだろうなあ。もうそろそろ、彼らも南方へ帰っていくんだなあ。
村一つ知り尽くしたる帰燕かな      金子つとむ
その時にできた句です。ところが、それから一週間もたたないうちに、「村一つを知り尽くす」というのは、いかにも誇張ではないかと思えてきたのです。別のことばでいえば、少しかっこ良過ぎるのではないか。村一つは果たして自分の実感だろうか。
燕帰る一つの路地を知り尽くし      金子つとむ
そうして、掲句が生まれました。泥臭いけれど、自分の実感に即しているように思えたのです。

雲の峰は、自分詩あるいは、自分史としての俳句を標榜していますが、自分詩ということのなかには、当然自分らしい詩ということも含まれているはずです。ところで、自分らしい詩とはどういうことでしょうか。
それは、一言でいえば、愛着の持てる詩ということではないかと思います。自分の思いを自分のことばで正直に表現し得たとき、その句は、自分にとって愛着のあるかけがえのない句になるのではないでしょうか。

このように、俳句は等身大の詩ではないかと思うのです。等身大の詩だからこそ、悲喜こもごも、読者の共感を呼ぶことができるのです。等身大の詩だからこそ、その句の向こうに、作者の姿が立ち上がってくるのです。等身大の詩だからこそ、その人の魂にふれることさえ可能になるのではないでしょうか。
ふだん着でふだんの心桃の花       細見 綾子
気取らない作者の姿が、句の向こうに透けて見えるようではありませんか。


二百四十、切れの意味

掌に香を移しけり。新松子。
今回は、掲句をもとに、切れの意味を考えてみたいと思います。まず、掲句の意味を考えてみましょう。
【解釈①】情景提示
句文A「掌に香を移しけり」から、連想されるのは、香水をつけているような場面でしょうか。香りを移したのは、作者自身です。こう考えると、句文B「新松子」は、そこから見える景色ということになりましょう。作者は、庭の新松子をみながら、季節の移ろいを感じているのでしょうか。しかし、この香りが本当は何の香りなのか疑問が残るでしょう。
【解釈②】補完関係
次に掲句を補完関係の句として解釈してみますと、
新松子が掌に(新松子の)香を移した
という意味になり、この擬人化にはちょっと無理があるように思われます。
【解釈③】恣意的
いやいや、補完関係でなくとも、この香は新松子の香ではないかという人もあるでしょう。何故なら、香り(臭い)のあるものは、新松子以外に見当たらないからです。作者のいいたかったことは、きっとこういうことではないかと読者は考えます。ちょっと乱暴な解釈ですが、
低い枝の手の届くところにある新松子に触れて、その香りを掌に移してみた。
のではないか。そして、それをそのまま句にすれば、
掌に新松子の香を移しけり(五八五)
となり、この句の順番を入れ替えると、
掌に香を移しけり。新松子(の)。
となるではないか。そして、ここから、「の」をとってしまうと、原句の形になると・・・。

しかし、朝妻主宰が切字論で明確に打ち出したのは、この最後の解釈はありえないということなのです。最後の解釈は切字の働きを無視した恣意的なものに過ぎません。ここで、改めて切れとは何か考えてみましょう。主宰は、
・切れは文の断点をさし、活用語の終止形で切れる。
・芭蕉のいう切字とは、句点を含んだ語のことである。
と述べています。二句一章の二句は、それぞれ独立した文であるということです。独立した文のなかに、他の文が入りこむことはないのです。唯一、片方の文の主語が欠落しており、もう片方に主語となりうる文がある場合にのみ、両者は合体し、補完関係が成り立つのです。

最後に、それぞれの解釈①と③に即した添削例をあげてみましょう。
掌に落とす香水新松子(但し、季重なり)
青松笠の香を掌に移しけり


二百四十一、永遠のハーモニー

名句と呼ばれるものが、いつまでたっても色褪せない理由はどこにあるのでしょうか。まるで、汲めども尽きぬ泉のように、読むたびに新たな感動を呼び起こす秘密はいったい何なのでしょうか。
今回は、一句一章、二句一章それぞれの名句を三句ずつ取り上げ、ことばどうしがもたらす響き合いという観点から、それを探ってみたいと思います。

まず、一句一章の名句をあげてみましょう。
をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田 蛇笏
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな    中村 汀女
滝の上に水現れて落ちにけり       後藤 夜半

「いまここ」の視点で詠まれたこれらの句から、はらりとおもきすすきの重さを感じ、とどまれば増えるような蜻蛉の姿を目の当たりにし、滝の上にとめどなく現れ、盛り上がる水を間近にすることができます。
ここでは、まるでことばが不思議な運動をしているようです。「いまここ」の時制が、永遠の「いまここ」を作り出しているといったら言い過ぎでしょうか。
その秘密は、季語とそれに纏わる述語間の、不思議なハーモニーにあるといえましょう。はらりとおもき・すすき、とどまれば・ふゆる蜻蛉、滝の上に水現れて・落ちる、それらが永遠に繰り返されているかのようです。

ところで、「くろさうし」のなかで、芭蕉は発句について次のように述べています。
発句の事は行て帰るの心の味なり。山里は万歳おそし梅の花、という類なり。山里は万歳おそしといひはなして、むめは咲るといふ心のごとくに、行て帰るの心、発句也。
 行きて帰るとは、まさに句文間の響き合い、ハーモニーのことではないでしょうか。山里は万歳おそしという句文も、梅の花という句文も、ただそれだけを取り出してみれば、取り立てて変哲のないものです。それが、一句のなかに収まった途端に激しく響き合うのです。

次に、二句一章の句を見てみましょう。
月天心貧しき町を通りけり        与謝 蕪村
蟾蜍長子家去る由もなし         中村草田男
芋の露連山影を正しうす         飯田 蛇笏

これらの句でも、一句一章と同様に、それぞれの句文間で、ハーモニーが奏でられています。
人の世の真実、自然の真実に対する作者の偽らざる実感が、両者を取り合わせたのではないかと思われます。
行きて帰る永遠のハーモニーこそが、ことばの不思議な運動の正体であり、名句の名句たる所以なのではないでしょうか。
葱白く洗ひたてたるさむさ哉       松尾 芭蕉


二百四十二、俳句は掛け算

初心者がはじめから一句一章の句に取り組むのは、ややハードルが高すぎるように思われます。何故なら、一句一章で何事かを述べるには、作者の発見や独自の認識といった、一句の核となるものが必要だからです。

いっぽう二句一章は、句文AとBの取り合わせです。句文AとBを、作者の感性で様々に作ることができます。ただ、句文AとBとの間には、付かず離れずの関係があればいいのです。
しかし、そんなに難しく考える必要はありません。はじめは、どちらの内容もなんとなく楽しそうだとか、明るい感じだとかで取り合わせてもいっこうに差し支えないのです。そのうち、両者が互いに響き合うことが、俳句の醍醐味だと分かってくると、相応しい組み合わせを見つけることができるでしょう。
この関係を掛け算(A×B)の関係と呼ぶこともできます。句文AとBの響き合いが、まさに掛け算のように、句意を広げる相乗効果を生んでいるからです。

さて、いくら二句一章が作りやすいといっても、問題なのは、全く無関係な句文同士を取り合わせてしまうことではないでしょうか。空想で作った句文では、おそらく読者には分かって貰えないでしょう。そこで、写生が推奨されるのです。写生の最も大事な点は、それが空想ではなく事実だということです。そのため、読者は、作者の経験を追体験できるのです。

写生で作る限り、句文AとBが大きくかけ離れてしまうことはありません。眼前の景である両者は、自然によって統べられているからです。しかし、ここで、AとBを手当たり次第組み合わせたら、どういうことになるでしょうか。おそらく、どれもみな報告調(A&B)で終わってしまうのではないでしょうか。

そこで、前項でも紹介した次の句で、A×Bの記号の意味を考えてみたいと思います。
山里は万歳遅し×梅の花         松尾 芭蕉
この万歳(まんざい)は、いまでは新年の季語になっている門付けのことでしょう。それが、梅の花の咲く頃になってようやく廻ってきたというのです。山里では、万歳も梅の花も平地よりずっと遅れるのでしょう。
山里は万歳遅しまで読んだときの、読者の暗い、どちらかといえばマイナスのイメージは、梅の花の一語で見事に覆されます。
一句は、今そのときが来た、喜びの詩だったと分かるのです。そしてこの掛け算を可能にしたのは、作者の感動に外ならないと思うのです。

二百四十三、強すぎることば

けやき句会(雲の峰東京句会)に次の句が投句されました。
湿原の霧間にうかぶ白骨樹        園原 昌義
わたしも掲句のような光景を北海道の野付半島で見た覚えがあります。気になってネットで調べてみると、そこは、トドワラといって、トドマツが枯死したものと分かりました。外にもネット上では、たくさんの白骨樹の画像を見ることができます。

さて、気になるのはやはり白骨樹ということばでしょう。掲句では、白骨樹の鮮烈なイメージだけが先行し、後に何も残らないような印象を受けるのです。作者もおそらく、この白骨樹ということばに頼り切ってしまったのではないでしょうか。その証拠に、中七は白骨樹の説明に過ぎないように思われます。
いっぽう読者は、白骨樹ということばに惹かれて掲句に立ち止まるものの、この句に感情移入できずに立ち去ってしまうのではないでしょうか。白骨樹ということばが、立ち入り禁止の看板のように見えてしまうのです。
そこで、代替案として、白骨樹を使わずに、
湿原の霧に立ちたる朽木かな
湿原の霧より白き朽木かな

などとしてみたらどうでしょう。朽木は、読者の想像の対象となり、読者は各自の経験の中から、その景に相応しい朽木を探りあてるのではないでしょうか。この時点で、読者は既に句の世界に没入しているのです。
読者を句の世界に引き入れるのに、強すぎることばは要らないというのがわたしの考えです。そのようなことばは、一句の中で浮いてしまうといったらいいでしょうか。

もう一つ例をあげてみましょう。
気骨なき風には鳴らず鉄風鈴       姫野 富翁
気骨なき風が、やはり言い過ぎのように思われます。風の気骨というものを、果たして読者は具体的に想像することができるでしょうか。
掲句は、自然の情趣を詠むというより、それにかこつけて別のことをいう、言わば寓意詩のように思われます。これでは、折角の風鈴の音色もそれを楽しむ心も台無しになってしまうのではないでしょうか。

できるだけさりげないことばで、作者独自の切り口を見せる、それが俳句独特の行き方ではないでしょうか。
次にあげた句は、おなじチューリップでも、作者によってみな異なる視点をもっています。それが俳句の面白さといえましょう。
チューリップ喜びだけを持ってゐる    細見 綾子
チューリップ花びら外れかけてをり    波多野爽波
軋みつつ花束となるチューリップ     津川絵理子

二百四十四、いのちをつなぐ

わたしたちが自然から受け取るメッセージは、いのちをつなぐということに尽きるのではないかと思います。生あるものには必ず死があります。その死に対抗しうるのは、命をつなぐということではないかと思うのです。命をつなぐことでわたしたちの生は無駄になることはないのです。

歳時記の動植物に先人たちがこころを寄せてきたのは、生きとし生けるものとして命をつなぐそのあり方に、共感を覚えたからではないでしょうか。季語は、人々の思いをのせつづけて、今に伝えられてきたのだと思います。
万葉の時代には、ことばを発っするとそれが実現すると信じられていたようです。いわゆることばの霊力、それを言霊というのでしょう。季語に込められた思いの総量を考えると、季語とは先人たちの思いの詰まった言霊ではないかとふと考えたりします。

さて、俳句を通して、わたしたちは、多くのメッセージを自然から受け取ることができます。切り戻された草花は、また種を作ろうと必死に花を咲かせます。暑さが一段落すると、木々はまた秋の芽を吹きます。いのちをつなぐための営みは、いつまでも止む事がないのです。
悩み多きわたしたちを、自然が勇気づけてくれている、ときどきそんな気さえしてきます。

春先に訪れる燕をまるで隣人のように歓迎し、見守り、慈しみ、帰る姿を見送る、それはそのまま、季語となって結実しています。
初燕、燕来る、里燕、夕燕、燕の巣、燕の子、親燕、夏燕、燕帰る、秋燕
田植えから稲刈りまでの季節を燕は里の人々と過ごすのです。そうして、ひとつがいの燕がたくさんの家族となって、南方へ帰っていく。その姿は人々の目に、けなげで、愛しいものに写ったことでしょう。

季語を働かせて俳句をつくるというのは、先人たちが季語に込めた思いに、わたしたちが共感するということではないかと思います。先人たちが込めた思いの一つ一つが季語の情趣を形作ってきたのではないでしょうか。
俳人の夏井いつき氏は、その著書(絶滅危急季語辞典、ちくま文庫)のなかで、七十二候について、次のように述べています。先人たちは五日ごとに季節の移ろいを感じ取っていたのです。
この七十二候を改めて念入りに読んでみると、昔の暦とは地上の万物との呼吸をはかりながら暮らしてきた人々の営みそのものであるよと、実感する。(太字筆者)
さつきまでそこにをりしが蛍売      夏井いつき
すこやかに帰る燕の一家族        金子つとむ


二百四十五、切れとは何か

ここでは朝妻主宰の切字論をベースに、切れが意味するものを、作者側と読者側の視点に立って考えてみたいと思います。まず、作者の側から考えてみましょう。
作者の俳句表現に、切れはどんな意味をもっているのでしょうか。
作者にとって予め言うべきことが明快で、「わたしはこう思う」「わたしはこう感じた」といいたいのであれば、それには、一句一章が相応しいでしよう。
をりとりとはらりとおもきすすきかな。  飯田 蛇笏
作者は、「折り取った薄がはらりと重かった」ことに感動してそれを表現してみたかったのでしょう。そして、そこで句点を打ったのは、作者が言いたいことはそれだけであり、金輪際何も足さない、何も引かない覚悟をも示しているといっていいでしょう。

それでは、二句一章の場合はどうでしょうか。
芋の露。連山影を正しうす。       〃
同じく蛇笏の句ですが、作者は、この二つの句文だけをいって、あとは黙してしまいます。作者は、眼前の芋の露と、居住まいを正した連山の姿に心を打たれ、それをそのまま二つの句文にして、併置してみせたのです。
それは、作者が感動したその場を再現し、読者を招き入れることでもあります。つまり、作者の感動はこの二つの句文が作り出す空間のなかに満ちているといってもいいのではないでしょうか。

一方これを読者の側からみると、作者が感動の結果として行った表現に対し、読者であるわたしたちの反応は様々でしょう。わたしたちは、自身の判断基準で、期待をもってその句を読んでいきます。そして、句を読み終えた時、その結果は次の何れかになるのではないでしょうか。
・ 期待以下
・ 期待通り
・ 期待以上(いい意味で期待が裏切られる事も含む)
特に二句一章では、句文Aまで読んだ段階で、期待はより具体的な形に変貌するものと思われます。「芋の露」の後の切れのなかで、わたしたちはその連想を膨らませ、次にくる句文を受け止める準備をしているのです。句文Bに対する期待感は一気に高まっていきます。そのような状態のなかで、句文Bは読まれることになるのです。

読者にとって、句文A・B間の切れとは、期待感を高める働きをするもの、極端にいえば、期待そのものといってもいいでしょう。そして、末尾の切れは、一句が期待に適うべき独立した内容を持っていることを示しています。
読者が抱く期待とはとりもなおさず作者と感動を共にしたいという期待なのです。


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