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【詩の森】550 つなぐ人々

つなぐ人々
 
僕らは学校で正史を学ぶ
正史では支配の正当性のみが強調される
呻吟する民衆の声は一切聞こえてこない
だれもが教わる大きな声の歴史といえよう
反対に小さな声の歴史は私史とよばれる
少数の人々によって語り継がれた
偽りのない歴史といってもいいだろう
君は戦争の最中に
反戦を貫いて殺された川柳人鶴彬(つるあきら)
本名喜多一二(きたかつじ)を知っているだろうか
 
鶴が残した川柳は
次のような激烈なものである
万歳とあげて行った手を大陸において来た
屍のゐないニュース映画で勇ましい
塹壕で読む妹を売る手紙
修身にない孝行で淫売婦
タマ除けを産めよ増やせよ勲章をやろう
手と足をもいだ丸太にしてかへし
彼は官憲に捕らえられ29歳の若さで獄死する
1938年9月14日のことであった
 
佐高信さんの著書
『反戦川柳人鶴彬の獄死』(2023年)によれば
その彼を後世に残そうと奔走した人が三人いるという
川柳作家一叩人こと命尾小太郎さん
小説家の澤地久枝さん
そして川柳評論家の坂本幸四郎さんである
生前の鶴彬と一面識もない彼らは
おそらく鶴の作品に
魂を揺さぶられたのであろう
自らの意志でつながっていくのだ
 
一叩人さんが鶴彬を知ったのは
1963年12月アカハタ紙上でのことだ
その日を境に彼の生活は一変する
全国を渉猟し約10年の歳月をかけて
散逸した鶴作品を収集するのだ
なんという透徹した意志だろう
そして1973年から2年がかりで
全3巻935頁の記録をガリ版刷りで仕上げたという
しかしそれを活字にしようという出版社は
なかなか現れなかった―――
 
1977年になって
漸くたいまつ社が名乗りあげる
こうして一巻本の『鶴彬全集』が初めて刊行されたのだ
しかしそれで終わりではない
一叩人による改訂作業はその後も精力的に続けられた
1996年頃一叩人を訪ねた澤地さんは
その増補改訂版の重たい原稿を託されることになる
バトンを受けた澤地さんも北國新聞紙上で
15歳の少年(ペンネーム喜多一児)の作品を
発掘することになるのだ
 
喜多一児として発表された作品は
次のようなものだったという
可憐なる母は私を生みました
魂がふと触れ合った或日です
暴風と海との恋をみましたか
早熟だった鶴はやがて
「川柳を武器とする作品」にのめり込んでいく
澤地さんは初期作品も含めた増補改訂版『鶴彬全集』を
1998年9月14日に限定500部出版する
鶴彬没後60年の命日であった
 
定価一万六千円のその全集は
それでも一年足らずで売り切れたという
「鶴に生き、鶴に死んだ」一叩人さんは
この出版を見届けた翌年の春
88歳で静かにこの世を去っている
さて三人目は坂本幸四郎さんだ
彼もまた鶴彬から目が離せなかったのだろう
『雪と炎のうた―田中五呂八と鶴彬』(1977年)
『井上剣花坊・鶴彬 川柳革新の旗手たち』(1990年)
と二冊の本を上梓している
 
反戦川柳人鶴彬―――
彼の作品に共感した人びとが
作品を押し上げたといえるだろう
あるいは国家の手で殺された鶴彬を
人びとの手が掬い上げたといえるかもしれない
そこには戦争に抗う人々の意志が脈々と息づいている
『反戦川柳人鶴彬の獄死』のなかで佐高さんはいう
「万歳とあげて行った手」の前段には
「天皇陛下」が隠されているのだと―――
私史とは僕らが知るべき抗いの歴史なのだ
 
2023.10.1
 

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