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古碁研究シリーズ 本因坊秀栄編 #1-1

割引あり

前書き

今回より古碁の研究書(解説書)を作成していくこととする。これはもともと自分自身の記録用としての目的が大きいがその延長として販売も行うものである。そのため誤字や脱字が発生している可能性もあるので、購入者の方でお気付きになられた方はコメント欄などで教えていただけると助かります。
また今回より取り扱っていく棋譜においてはすべて古碁とし、江戸時代もしくは明治時代初期のものである。
そしてまずはその最初のシリーズとして本因坊秀栄の棋譜を独自に選定し私が名局であると判断したものを中心に研究していく。
さらにこの研究書においては当方はAIによる最新研究のようなことは行わないため評価値などの提示は出来かねますのでご理解ください。
この研究書においては検討が主な内容になってくるため、私の知識と読みを元に過去の大棋士の碁を批判的に調べるものである。そのため私の言葉遣いや上から目線の検討に理解を得られない方は購入をお控えください。

*また転売や無断転載や無断譲渡はお控えいただきますようお願いいたします。

対局

今回扱う棋譜は東京の有楽町において打たれた一局で、黒は高橋杵三郎5段、白は本因坊秀栄7段である。対局日は1891年2月2日。手合い割は定先(2段差)もしくは先二(3段差)であったと思われる。

内容

棋譜1(1~6)

江戸時代より続く白の手法として4手目において空き隅をすぐには占めず黒のシマリを打っていない黒の隅にカカリを選択するというのが流行というか、一つの型となっていた。そのためこの時代の碁においてはこのような進行からのスタートは一般的である。しかし並行系と呼ばれる空き隅を占めあってからスタートすることが多い現代碁と比べると違和感があるのは仕方ないといえるだろう。また現代碁の互先においては黒から6目半のコミを出していることで白は序盤から急ぐ必要がないというのがその理由でもある。一方で当時はコミの概念や試験的導入はあれども、一般的には採用されていなかったこともあり、白番はそのハンデをいかに埋めるかということが至上命題であった。そのためこの対局においても白は積極的に仕掛けていくためにカカリからの大斜をしたと思われる。

現代碁においてはケイマでカケるという手段が多くみられるが、当時としてもその手法がなかったわけではない。しかしながら、コミを意識して碁を少し複雑にしようと狙らっていることから黒の形が安定してしまうカケは候補から外される傾向があったようである。

棋譜2(7~16)

黒7の手は昔からある大斜に対する一番強い応手である。

現代感覚からすると黒の13が不思議な手であるが、当時における大斜系の一つの答えのようなものとなっている。後の本因坊秀策の時代付近において大斜は大いに研究され、井上幻庵因碩との対局でも有名であるが大斜は一局の行く末を決めかねないとして13の手で伸びる変化はそれ以降減っていく傾向になる。黒が伸びていく変化においては、白からA,B,Cと変化していく権利があり黒はそれに従わなくてはいけないことから黒の立場で大斜は避けられるようになった。

【参考譜】1846年9月白;幻庵因碩 黒;安田秀策

これを見るだけでも隅の定石が全局に波及しようとしていることが見て取れる。それを考えると現代においては大斜がダイレクト三々に変わっただけであり、結局は同じことを繰り返しているといえるだろう。また当時から、この大斜への対応策として黒の立場でいくつかの変化が試験運行されたことがある。

その一つが上図である。しかしこれはプロ(専門棋士)の間ではほとんど打たれることはなかったようである。というのも黒1と並ぶ手がコミにして2目近く損であるという見解があったようでそれほどの損をするのは看過できないとみていたようである。
それに対して…

黒1とコスミツケて辺を占める一連の手は昔から棋士たちも使用してきており、AIの影響で見直しや、発展が見られた定石の一つである。

その変化の一例としては、黒9で割り込んでいく手であるが、白からAやBと選ぶことが出来るためやや黒から敬遠されがちである。これらの変化球を黒が選ばなかった一番の理由として、白の秀栄氏が元々力碁の棋風であること上げられる。中央に力を溜められて模様碁で戦闘すること回避するために黒は実践の進行を選んだ可能性がある。そろそろ実践に戻ろう。

棋譜3(17~18)

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